アテネでふたりを待っていたパウロは、町が偶像でいっぱいなのを見て、心に憤りを感じた。(16)
偶像に憤りを感じるのは、それらが創造主なる神に敵対する霊に拠るものであり、作る者と信じる者を真の神から遠ざけて、滅びに至らせるからである。
私たちの神は、天におられ、その望むところをことごとく行われる。
彼らの偶像は銀や金で、人の手のわざである。
口があっても語れず、目があっても見えない。
耳があっても聞こえず、鼻があってもかげない。
手があってもさわれず、足があっても歩けない。
のどがあっても声をたてることもできない。
これを造る者も、これに信頼する者もみな、これと同じである。(詩篇115:3~8)
罪深いアテネで福音は語られた。今も世界の果てまで、神の愛が語り伝えられている。
しかし、信仰は人の自由に任される。パウロは偶像を破壊する必要もないし、キリストを強制することもしない。
そこでパウロは、会堂ではユダヤ人や神を敬う人たちと論じ、広場では毎日そこに居合わせた人たちと論じた。
エピクロス派とストア派の哲学者たちも幾人かいて、パウロと論じ合っていたが、その中のある者たちは、「このおしゃべりは、何を言うつもりなのか」と言い、ほかの者たちは、「彼は外国の神々を伝えているらしい」と言った。パウロがイエスと復活とを宣べ伝えたからである。(17~18)
ただ、キリストの十字架のあがないが、この人々に無駄にならないことを祈りつつ、「聞く耳のある人は聴きなさい」と、語り続けるのである。
そこで彼らは、パウロをアレオパゴスに連れて行ってこう言った。「あなたの語っているその新しい教えがどんなものであるか、知らせていただけませんか。
私たちにとっては珍しいことを聞かせてくださるので、それがいったいどんなものか、私たちは知りたいのです。」
アテネ人も、そこに住む外国人もみな、何か耳新しいことを話したり、聞いたりすることだけで、日を過ごしていた。(19~21)
アテネの人々にとって信仰は、知的好奇心を満たすためのツールに過ぎなかった。それゆえ、十字架のことばはあまりにも愚かであり、受けることが困難なのである。
生まれながらの人間は、神の御霊に属することを受け入れません。それらは彼には愚かなことだからです。また、それを悟ることができません。なぜなら、御霊のことは御霊によってわきまえるものだからです。(Ⅰコリント2:14)
この世界とその中にあるすべてのものをお造りになった神は、天地の主ですから、手でこしらえた宮などにはお住みになりません。
また、何かに不自由なことでもあるかのように、人の手によって仕えられる必要はありません。神は、すべての人に、いのちと息と万物とをお与えになった方だからです。
神は、ひとりの人からすべての国の人々を造り出して、地の全面に住まわせ、それぞれに決められた時代と、その住まいの境界とをお定めになりました。
これは、神を求めさせるためであって、もし探り求めることでもあるなら、神を見いだすこともあるのです。確かに、神は、私たちひとりひとりから遠く離れてはおられません。
私たちは、神の中に生き、動き、また存在しているのです。あなたがたのある詩人たちも、『私たちもまたその子孫である』と言ったとおりです。
そのように私たちは神の子孫ですから、神を、人間の技術や工夫で造った金や銀や石などの像と同じものと考えてはいけません。(24~29)
今は、神のひとり子イエス・キリストによって、神には受け入れることの出来ない罪をあがなわれており、イエスを主と告白することによって、救いをたまわることができる。
また、聖霊によってキリストのうちに居らせ、キリストも信仰者のうちに居られて、完璧な守りの中に置かれているのだ。
神は、そのような無知の時代を見過ごしておられましたが、今は、どこででもすべての人に悔い改めを命じておられます。
なぜなら、神は、お立てになったひとりの人により義をもってこの世界をさばくため、日を決めておられるからです。そして、その方を死者の中からよみがえらせることによって、このことの確証をすべての人にお与えになったのです。」(30~31)
イエス・キリストは墓に葬られ、よみがえって、天に昇られた。やがてまた来られて、生きている者と死んだ者とを、その信仰によって永遠のいのちと永遠の滅びとに、ふるい分けられる日が来るからである。
初めに悔い改めるべきは、天地創造の神を神としなかったことである。ひとり子イエスの、いのちと引き換えるほどの愛を受入れず、神を悲しませたことである。
死者の復活のことを聞くと、ある者たちはあざ笑い、ほかの者たちは、「このことについては、またいつか聞くことにしよう」と言った。
こうして、パウロは彼らの中から出て行った。(32~34)