石ころ

わたしの母とは(ヨハネの福音書19章)

 

イエスの十字架のそばには、イエスの母とその姉妹、そしてクロパの妻マリアとマグダラのマリアが立っていた。(25)

 

イエスの十字架の側に立得るのはイエスを愛する愛に拠ることである。弱い女が大の男も逃げ出す十字架刑の側に留まっていたのである。
彼女たちは最後まで「何かしてあげられることはないか」と愛するイエスを離れなかったのである。

 

御救いに与ってみことばに聴き入るとき、その恵みのことばを知らせるために、何か自分に出来ることはないかと我を忘れて走り回り、何でも出来ることをしようとする原動力は、イエスの愛を受けたからである。十字架で支払ってくださった尊い血の代価を知っているからである。

 

イエスは、母とそばに立っている愛する弟子を見て、母に「女の方、ご覧なさい。あなたの息子です」と言われた。
それから、その弟子に「ご覧なさい。あなたの母です」と言われた。その時から、この弟子は彼女を自分のところに引き取った。(26~27)

 

イエスがかって「女の方」と呼ばれていたマリアを、此処で主の家族であるヨハネに委ねて、主に在る家族の母とされたのである。

 

イエスは母に言われた。「女の方、あなたはわたしと何の関係がありますか。わたしの時はまだ来ていません。」(ヨハネ2:4)

 

イエスは十字架の激しい苦痛の中にあっても、子を愛して御前に留まっているマリアへの気遣いが溢れている。「わたしの時」の今、イエスの良き計画がマリアに成就した

 

「わたしの母とはだれでしょうか。わたしの兄弟たちとはだれでしょうか」と言われた。
それから、イエスは弟子たちの方に手を伸ばして言われた。「見なさい。わたしの母、わたしの兄弟たちです。(マタイ12:48~49)

 

それから、イエスはすべてのことが完了したのを知ると、聖書が成就するために、「わたしは渇く」と言われた。(28)

 

すべての人の救いのために流されるイエスの血は、人類の罪をあがなうための神への捧げものであり、罪の無いイエスの血でなければ神の義を成し遂げるものはなく、それは一滴残らず捧げ尽くすイエスの命であって、霊も体も激しい渇きにあられたのである。

 

湖は大荒れとなり、舟は大波をかぶった。ところがイエスは眠っておられた。(マタイ8:24)

 

イエスは神ではあったが、嵐の小舟の中で熟睡してしまうほどに疲れてしまう体を持った人であった。そう、私たちと同じように痛み、苦しみ、疲弊して、人の頑なさを嘆き悲しむ心を持った人であったのだ。

 

酸いぶどう酒がいっぱい入った器がそこに置いてあったので、兵士たちは、酸いぶどう酒を含んだ海綿をヒソプの枝に付けて、イエスの口もとに差し出した。(29)

 

イエスのカラカラに渇いた喉には、酸いぶどう酒は鋭い棘のように刺さったであろう。それは喉を潤すものではなく傷つけ痛めたであろう。
しかし、聖書にそのようなことは一言も書かれていない。そう、聖書にはイエスの苦しみも痛みも一言も書かれていないのだ。

 

イエスは酸いぶどう酒を受けると、「完了した」と言われた。そして、頭を垂れて霊をお渡しになった。(30)

 

イエスは此処ですべての御父のみこころを成し遂げて、人類に救いの道を開いてくださった。
聖なる神との関係を回復してくださり、神の子とされ親しく「アバ父」と呼んですべての願いを申し上げる交わりをたまわり、永遠へのいのちの望みを持つ者とされたのである。


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