
息子達が集まって主人の納骨堂を訪ねたとき、牧師さんは孫にメッセージを準備していてくださった。
何も打ち合わせをしてなかったので初めはちょっと緊張したけれど、賛美やお祈りと丁寧に対応してくださって嬉しかった。
滝のような汗を流しつつゆっくりと時間をとって交わってくださった。息子の家族と教会を訪ねることができたのは、私にとって嬉しいことだった。
5日間孫達と賑やかな楽しい時間を過ごした。やはり家族っていいなぁ・・。
ただ、末っ子のあかりは目から鼻に抜けるような子で、その行動力とあらゆる手段とエネルギーにずっとタジタジ・・小学二年生にどう対応して良いのか分からず、まるで研究するように彼女を見て過ごした。
彼女には欲しいものがあるのだ。あらゆる方法を使ってお願いをする。キュートな仕草で、優しい言葉で、また欲しいものを二日がかりで紙いっぱいに書いて・・それを二度繰り返した。いや、同じではなくバージョンアップしてあった。
でも、2個目はもう駄目って断ると涙を流してすすり泣いていた。安いものだから買って上げるのは簡単だけれど・・あまりの熱心に、逆に本当に彼女の流れに乗っても良いかと、私は年甲斐もなく身構えさせられてしまったから・・。
孫を泣かせたり、飛び跳ねてはしゃぐ姿を見たり、がっかりさせてしまったり・・したけれど、子供ひとりを知ることさえものすごいエネルギーが要ることを知った。
もっとも今はまだ何もわかってはいないと思うけれど・・、ただ老婆心で気がかりなのだ。
「子供のように」とイエス様は言われた。その言葉を思い出したとき自分の間違いに気付いた。
「子供は言いなりになって素直」それが思い違いと知らされたから。確かに子供は一つの願いに真剣で、執拗で、あらゆる手を尽くすのかも知れない。子供のほうが大人のようにはあきらめないのかもしれない。
家族写真を撮って嫁さんが「またすぐに戻ってくるから」って言葉を残して、燃えるような陽射しの中いくつもの手が揺れる車は去っていった。
「子供たちをわたしのところに来させなさい。妨げてはならない。神の国はこのような者たちのものである。
はっきり言っておく。子供のように神の国を受け入れる人でなければ、決してそこに入ることはできない。」(マルコ10:14~15)