義に飢え渇く者は幸いです。その人たちは満ち足りるから。(マタイ5:6)
律法という養育係によって、神の義を真に知らなければ渇きも生まれず、十字架の救いを求めることもないだろう。
律法は私たちをキリストへ導くための私たちの養育係となりました。私たちが信仰によって義と認められるためなのです。(ガラテヤ3:24)
神の義はそれを知って自分も行おうとするときに、激しい飢え渇きを覚えさせる。それは「昨日よりも今日は良くなった、明日はもっと良くなるだろう・・」そんなレベルのものではないことを悟るからである。決して追いつくことのなく、どんなに頑張っても手にすることなく死ぬであろう自分を見るからである。
神は、罪を知らない方を、私たちの代わりに罪とされました。それは、私たちが、この方にあって、神の義となるためです。(Ⅱコリント5:21)
この時、脱出の道として備えられている十字架に目を上げて、依存する完全な救いを求めるようになるのである。
救われた私たちはみことばの約束によって、神の義に満ち足りて安息を得るようになる。みことばは渇いて飲めば飲むほどに豊かに満たされて、器を溢れて流れ出すから・・。
私の敵の前で、あなたは私のために食事をととのえ、私の頭に油をそそいでくださいます。私の杯は、あふれています。(詩編23:5)
人の義を誘惑する敵の前で、みことばの約束のパンと、解き明かす聖霊の油を注いでくださるのは主である。それゆえ私たちは賛美と喜びに満ち足りる者となるのだ。
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