ペテロは外で門のところに立っていた。それで、大祭司の知り合いだったもう一人の弟子が出て来て、門番の女に話し、ペテロを中に入れた。
すると、門番をしていた召使いの女がペテロに、「あなたも、あの人の弟子ではないでしょうね」と言った。ペテロは「違う」と言った。(16~17)
ヨハネが問われないことをペテロは問われている。ペテロの恐れが見透かされるからである。そうしてペテロは悪魔が仕掛けた罠に堕ちて、主イエスとの関係を否定した。
恐れがあるならヨハネに誘われても断れば良かったのである。中途半端な信仰によって窮地に追い込まれるのはみことばを握っていないからである。
キリスト信仰に置いて窮地に立たされた時、すべてに通じる解決方法は、即座にイエスに命を託すことである。死はすべての問題を解決するからであり、キリスト者の肉体の死は、霊に在る永遠のいのちに繋がることを知っているからである。
「生きることはキリスト、死ぬことは益です」(ピリピ1:21)
主が脱出の道を備えてくださる。ペテロにも初めにみことばを与えて備えてくださっていた。
生きようとする遣り繰りによって永遠のいのちを失い、主を愛して死をも受け入れるとき、誰も奪うことの出来ないいのちを得る。主の許し無に雀の一羽も地に落ちることはなく、生かすときは主が生かされる。
私たちは、生きるとすれば主のために生き、死ぬとすれば主のために死にます。ですから、生きるにしても、死ぬにしても、私たちは主のものです。(ローマ14:8)
しもべたちや下役たちは、寒かったので炭火を起こし、立って暖まっていた。ペテロも彼らと一緒に立って暖まっていた。(18)
ペテロは寒かったのだ。肉を惜しむと肉の欲求が増し、霊を惜しむと肉を忘れる。彼は人の中に紛れ込むことが可能と思っていたのだろう。いや、良くも悪くも神の子は人の中に紛れ込むことは不可能である。
ペテロは決して隠れることはできない。それは主に生きる者の守りであって、生きて働く神のことばを世に現すための備えである。
大声で触れ回らなくてもみことばに従順な人生が、世のものではない神の子の存在を知らせるのである。
人に知られていないようでも、よく知られており、死にかけているようでも、見よ、生きており、懲らしめられているようでも、殺されておらず、(Ⅱコリント6:9)
大祭司はイエスに、弟子たちのことや教えについて尋問した。
イエスは彼に答えられた。「わたしは世に対して公然と話しました。いつでも、ユダヤ人がみな集まる会堂や宮で教えました。何も隠れて話してはいません。(19~20)
イエスは何処ででも、何時でも自由に神の国のことを話し、御わざを行っておられた。誰でもイエスの言葉も御わざも知っていたのである。勿論、彼らもイエスを知っているから捕らえたのである。
なぜ、わたしに尋ねるのですか。わたしが人々に何を話したかは、それを聞いた人たちに尋ねなさい。その人たちなら、わたしが話したことを知っています。」
イエスがこう言われたとき、そばに立っていた下役の一人が、「大祭司にそのような答え方をするのか」と言って、平手でイエスを打った。(21~22)
大祭司は、イエスの言葉も行いも知っており無実と知りながら捕らえて、まるで何も知らない者のようにイエスに問う。もし知らないのならなぜイエスを捕らえたのか、ということである。何を言おうとも、彼らが殺すためであることをイエスは知っておられる。
イエスはそのような茶番に付き合うことはない。イエスは命懸けで神の国のことを伝え、御わざを行って命の限り神の存在を知らせた。ニコデモのようにイエスを求める者の問いには答え、ご自身による救いを知らされた。
イエスは彼に答えられた。「わたしの言ったことが悪いのなら、悪いという証拠を示しなさい。正しいのなら、なぜ、わたしを打つのですか。」
アンナスは、イエスを縛ったまま大祭司カヤパのところに送った。(23~24)
決して罪を犯されなかったイエスであれば、誰もその罪を挙げることは出来ないのである。人がイエスを裁くことは不可能であった。また、イエスは神が与えた純粋な律法を完全に守って見せられた方でもある。
イエスは彼らに言われた。「あなたがたに尋ねますが、安息日に律法にかなっているのは、善を行うことですか、それとも悪を行うことですか。いのちを救うことですか、それとも滅ぼすことですか。」(ルカ6:9)
さて、シモン・ペテロは立ったまま暖まっていた。すると、人々は彼に「あなたもあの人の弟子ではないだろうね」と言った。ペテロは否定して、「弟子ではない」と言った。(25)
ペテロはイエスとの師弟関係を否定すれば、自分の身を守れると思っていたのだろうか。イエスを否定しながら留まっていることに何の意味があるのだろう。彼は恐怖で逃げ出す自由を失っていたのだ。恐れは自由を奪うものである。
大祭司のしもべの一人で、ペテロに耳を切り落とされた人の親類が言った。「あなたが園であの人と一緒にいるのを見たと思うが。」
ペテロは再び否定した。すると、すぐに鶏が鳴いた。(26~27)
鶏の声を聞いたとき、ペテロはイエスの言葉を思い出して恐れから解放された。みことばを思い出すことが出来れば、キリスト者は恐れから解放され正気に返ることが出来る。みことばこそイエスが準備してくださった守りである。
するとすぐに、鶏がもう一度鳴いた。ペテロは、「鶏が二度鳴く前に、あなたは三度わたしを知らないと言います」と、イエスが自分に話されたことを思い出した。そして彼は泣き崩れた。(マルコ14:72)
この涙は甘い涙である。イエスを思い出して泣くことは、如何なる時もキリスト者の救いである。