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「良い人は、良い倉から良い物を取り出し、悪い人は、悪い倉から悪い物を取り出すものです。
わたしはあなたがたに、こう言いましょう。人はその口にするあらゆるむだなことばについて、さばきの日には言い開きをしなければなりません。
あなたが正しいとされるのは、あなたのことばによるのであり、罪に定められるのも、あなたのことばによるのです。」(マタイ12:35~37)
心にみことばが満ちていれば、時が良くても悪くても、空気を読む間もなく語り出さずには居れないもの。それによってサタンの巧妙な罠を退けることが出来るのであり、世からも守られるのである。
しかし、みことば以外のもっともらしい言葉は、やがて御前にてすべて言い開きを求められることになる。
ソロモンの知恵を聞くためにシェバの女王は遠くからやって来た・・。しかし、側におられるイエス様のみことばに耳を貸そうともせず、神のわざを目に見せられてなを「ベルゼブルのわざ」と否定してしまう人の頑固さ・・。
悪霊が出てきた家に戻ると、きちんと片づいていたので自分よりも悪いほかの霊を連れてきて住み着き、初めよりもさらに悪い状態になる・・。そのような邪悪な今の時代である。
彼らには律法があったが律法を成就される主を否定したことで、律法による救いをも追い出してしまったのだ。
みことばの倉もなく、律法の成就もなくなった家の守りは空っぽであり悪霊の天下となる。
「からだを殺しても、たましいを殺せない人たちなどを恐れてはなりません。そんなものより、たましいもからだも、ともにゲヘナで滅ぼすことのできる方を恐れなさい。」(マタイ10:28)
殉教の人々は、聖霊の臨在の中でこのみことばに生きたのだろう。それはなんと甘美なことであろう・・、わずかな時の差で人は必ず死ぬのだ。キリスト者の完成されるのはその後の永遠でである。
「ベルゼブル」と時に呼ばれる方が私たちの家長であれば、その主の家族はみことばを語ることによって同じように責められる時があるだろう。
キリスト者にとって世とは、一つのみことばによって昨日までの良き日が一変するものだ。それは剣であるから・・。
「天におられるわたしの父のみこころを行なう者はだれでも、わたしの兄弟、姉妹、また母なのです。」(マタイ12:50)
「自分の十字架」とはイエス様の家族であること。そのキリスト者には世の知らないたましいのやすらぎが約束されている。
ひとときの世の安らぎを取るか、主に在る永遠の安らぎを取るかは自分で選ぶものであって、主のみこころを行うとはその選びだと思う。
「わたしは心優しく、へりくだっているから、あなたがたもわたしのくびきを負って、わたしから学びなさい。そうすればたましいに安らぎが来ます。」(マタイ11:29)