石ころ

荒野の40年を守る神(申命記29章)

 

モーセはイスラエルをみな呼び寄せて言った。あなたがたは、エジプトの地で、ファラオとそのすべての家臣たちとその全土に対して、主があなたがたの目の前でなさったことをことごとく見た。
すなわち、あなたが自分の目で見たあの大きな試み、あの大きなしるしと不思議である。(2~3)

 

イスラエルの民がエジプトを脱出した時のような、恐るべき神の数々の奇跡を今世界が見たとしても、いっせいに悔い改めて真の神に立ち返ることはないだろう。

イスラエルの民と同じように、しばらくは恐れて聞き従おうとしても、結局その記憶は日々の必要の中に埋没して行き、あらゆる理屈を並べたてて何も見なかったかのように、それぞれの信じたいものを信じ、自分の生きたいように生きるのだろう。

見ただけでは自分の経験とはならず、聞いただけでもそれが「私になんの関係があろう」ということになる。イスラエルがその命に経験した神のわざであっても、時とともに主の記憶は薄れていったのだ。

 

しかし、主は今日に至るまで、あなたがたに悟る心と見る目と聞く耳を与えられなかった。(4)

 

神の選びの民として、格別に主に覚えられていることを誇りに思っていても、彼らの方から主を知るみことばを求めたことはなく、みこころを生きたいと御声に耳を澄ますこともしなかった。それゆえ彼らが主を悟ることはなかった。

 

私は四十年の間、荒野であなたがたを導いたが、あなたがたが身に着けている上着はすり切れず、その履き物もすり切れなかった。(5)

 

罪を犯して園を追われたアダムたちに、神が皮の衣を着せられた日のように、神は彼らの身を守り、乳と蜜の流れる約束の地に向かう足も守られた。不信仰な40年間を、民がまったく気づかないほどにそっと守る主の御愛である。

 

あなたがたはパンも食べず、ぶどう酒も強い酒も飲まなかった。それは、「わたしがあなたがたの神、主である」と、あなたがたが知るためであった。(6)

 

荒野の日々は、すべて主の養いによって生かされた年月である。朝毎にマナを降らせ、肉が食べたと言えばウズラを降らせて養われた。またモーセに命じて岩から水を出させ、人も家畜もその水を飲んで生きたのである。しかし、このような大いなる奇跡を経験し続けても、民はつぶやくことがあっても主を悟ることはなかった。

 

あなたがたがこの場所に来たとき、ヘシュボンの王シホンとバシャンの王オグが出て来て、私たちを迎え撃ったが、私たちは彼らを討ち破った。(7)

 

水さえない荒野を彷徨う間も彼らはやせ衰えることはなく、神の豊かな養いによって次世代を育ててその数を増やし、敵に襲われた時も勝利するほどの力が与えられていた。

 

私たちは彼らの地を取り、これを相続地としてルベン人とガド人と、マナセ人の半部族に分け与えた。
あなたがたはこの契約のことばを守り、それを行いなさい。あなたがたのすることがすべて栄えるためである。(8~9)

 

今世に生きるキリスト者も、一方的な主のお守りによって生かされている。自分の信仰によって主を知る者はいないが、今は聖霊の導きによって、みことばを悟る心と、真実を見わける目と、神の御声を聖書から聞く耳が与えられる。主を知ることに渇くなら誰にでも・・。

 

聖霊はみことばと祈りの交わりによって、日々の歩みを確かにしてくださる。混乱する世にあっても惑わされることのないキリストの平安の中で、神の豊かな養いを味わいつつ永遠の住まいを目指して世を駆けている。


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