石ころ

復活のキリスト①(マルコ16章)

 

さて、安息日が終わったので、マグダラのマリヤとヤコブの母マリヤとサロメとは、イエスに油を塗りに行こうと思い、香料を買った。
そして、週の初めの日の早朝、日が上ったとき、墓に着いた。
彼女たちは、「墓の入口からあの石をころがしてくれる人が、だれかいるでしょうか」とみなで話し合っていた。(1~3)

 

墓には大きな石で塞がっていることが分かっていた。それなのに女たちは、イエスさまのお体に塗る香料などを準備してやってきた。彼女たちはどのようなイエスさまにも、それが墓であっても変わらず仕えた。

 

今までもこのようにイエスさまに仕えていたのだろう。
石を動かすという解決法を得たから動くのではなく、今出来ることをしていたら、その先には備えがあって、時にかなってぴったりと成った経験である。
信仰の不思議をそのように経験して、みこころに歩んでいるという確信が、積み重ねられて行くのだ。

 

ところが、目を上げて見ると、あれほど大きな石だったのに、その石がすでにころがしてあった。
それで、墓の中に入ったところ、真っ白な長い衣をまとった青年が右側にすわっているのが見えた。彼女たちは驚いた。(4~5)

 

すると、大きな地震が起こった。それは、主の使いが天から降りて来て、石をわきへころがして、その上にすわったからである。
その顔は、いなずまのように輝き、その衣は雪のように白かった。(マタイ28:2~3)

 

女たちの準備は役に立たなかった。キリスト者は死者に仕える者ではなく、生ける神に仕える者である。
しかし女たちが変わらぬ愛をもって墓でも仕えたことで、復活の主に一番に出会ったのである。

 

すると、イエスが彼女たちに出会って、「おはよう」と言われた。彼女たちは近寄って御足を抱いてイエスを拝んだ。
すると、イエスは言われた。「恐れてはいけません。行って、わたしの兄弟たちに、ガリラヤに行くように言いなさい。そこでわたしに会えるのです。」(マタイ28:8~10)

 

問題となる石は御使いによってどけられる。そのことを経験するのは、死んだイエスに仕えるために墓に来た者である。人間的には望みの無い時に、なを愛をもって仕える準備をして、イエスの墓に来た者である。

 

女たちは、墓を出て、そこから逃げ去った。すっかり震え上がって、気も転倒していたからである。そしてだれにも何も言わなかった。恐ろしかったからである。(8)

 

キリスト者の役目はみことばを伝えることである。彼女たちには語るべきことばが伝えられた。
女たちは目の前の出来事に気も動転していた。私たちの信仰なんてたかが知れている。

繰り返し聞いたみことばも、あまりにも思いの及ばない事実に出会ったら、恐れで動けなくなるだろう。

 

マタイの福音書にルカやヨハネにも、彼女たちがこのことを弟子たちに伝えたと書かれてある。イエスさまの復活の四福音書の記事は、彼女たちの経験の何を中心に書かれているかによって、内容が少しずつ違っている。


むしろ、このことでイエスさまの復活の時には、どれほどの混乱状態であったかがリアルに伝わって来る。聖書が人間的な辻褄合わせをされていないことで臨場感があるのだ。

 

ある筆者には信じ得ないで省略されていても、他の福音書に残されているために、四人によって書かれることが重要なのだ。みことばは教えではなく、生きて働くいのちだからである。
みことばを語るとき、自分が信じて経験したことばが、中心になって行くことは当然である。

 

信じてもいないことを語るのは詐欺のようなものだから・・。自分に示されたみことばによって生きて、その中で味わった事実を通して語るからである。

 

あらゆる人の、あらゆる人生に生きて働く神のことばの力を、その人が何を信じてどのようなイエスに出会ったか、その証が必要なのである。まさしく、ことばなるイエスと共に生きた命の証である。


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