あすのための心配は無用です。あすのことはあすが心配します。労苦はその日その日に、十分あります。(マタイ6:34)
私たちの明日は主の中に準備されているものであり、明日を心配してくださるのは主である。また、その日の労苦は主が蒔かれたマナを拾うだけ・・たったそれだけ。
老後の心配をすることは、今日の主を信頼しないことであり、今朝のマナに感動や感謝がないことから出て来る。
信じていないものが備えられることはない。
何を食べるか、何を飲むか、何を着るか、などと言って心配するのはやめなさい。・・あなたがたの天の父は、それがみなあなたがたに必要であることを知っておられます。(マタイ6:31.32)
明日を思い煩うのは今日の労苦が軽い時である。疲れ果てている者なら明日の事など考える余裕もないだろう。今日の労苦が軽くされればされるほど、その恵みの時間が明日を思い煩うことに用いられるようになるのだ。
明日の心配をするその時間は、今のいのちに感謝を捧げる時であるのだ。今の祝福に気付くことが永遠のいのちに繋がって行くのだから。
明日の事を心配する者は主がどれほど祝福しようとも、死ぬ日まで心配の種が尽きないことになる。それはどれほどイエスさまのあがないを軽んじることだろう。主を悲しませることだろう。
だから、わたしはあなたがたに言います。自分のいのちのことで、何を食べようか、何を飲もうかと心配したり、また、からだのことで、何を着ようかと心配したりしてはいけません。いのちは食べ物よりたいせつなもの、からだは着物よりたいせつなものではありませんか。(マタイ6:25)
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