ちょうどそのとき、人々が何人かやって来て、ピラトがガリラヤ人たちの血を、ガリラヤ人たちが献げるいけにえに混ぜた、とイエスに報告した。
イエスは彼らに言われた。「そのガリラヤ人たちは、そのような災難にあったのだから、ほかのすべてのガリラヤ人よりも罪深い人たちだったと思いますか。
そんなことはありません。わたしはあなたがたに言います。あなたがたも悔い改めないなら、みな同じように滅びます。(1~3)
イエスはガリラヤ人が滅んだのと同じ罪を、あなたがたも持っていると指摘された。自分たちには彼らのような罪は無く、滅びることも無いと思っていたからである。罪の自覚がない人には、神が準備してくださったキリストの救いも届かないからである。
また、シロアムの塔が倒れて死んだあの十八人は、エルサレムに住んでいるだれよりも多く、罪の負債があったと思いますか。
そんなことはありません。わたしはあなたがたに言います。あなたがたも悔い改めないなら、みな同じように滅びます。」(4~5)
重ねて、罪の無い人はいないことを此処で教えておられる。人は災いによって死ぬことが問題ではなく、悔い改めない罪によって永遠に滅びることが問題なのである。
すべての人が罪人となり義人がひとりも居なくなったとき、人は罪を有無ではなく比較によって認識するようになった。罪の重い方を軽い方が責め、あるいはお互い様ということで罪としないのである。
国が違えば罪も変わり時代によっても変わる。戦争では敵を多く殺すことで褒章を受ける。このこと一つによっても、戦争が如何に異常なことであるかが分かる。
神は律法によって選びの民に罪を教えられた。罪の基準を持たない人類に示された神の基準である。それは神の義を知らせ、守れない律法を経験することによって、罪を自覚させるためのものである。
滅に至る罪は創造主を認めない罪である。造り主を認めなければ、人は自分の命の目的を見出すことが出来ず、神を知ることなく目的を得ても、それは人の欲望から出たもので、命とともに滅びるものである。
神が愛し母の胎で組み立ててくださった命が、創造者の目的を果すことなく滅びるなら、それは神の悲しみとなる。これこそ取り返しのつかない罪である。
神が命のあらゆる必要を備えて生かし、キリストが十字架で聖い血潮を流されたほどの命である。
自分の目的のために生きることは、自分を神の位置に置く偶像礼拝である。
神に造られた者はみことばに従って安らかに生き、日々主とのお交わりによる愛の中で生かされ、主のみこころを成す者である。ご真実な神はその必要のすべてを準備していてくださる。
信じた時にみことばを解き明かして導く聖霊がうちに住んでくださり、信仰によってイエス・キリストのうちに在って、イエスも私たちのうちに居てくださり、父なる神も共におられる神の子とされたことは、聖書にはっきりと書いてある。
このようなキリスト者に何か不自由があろうか、天地を持っておられる神に在って、貧しさと弱さに悩むことがあるだろうか。まだ、待って居なければならないことがあるのだろうか。
しかし、神と人の間にある深い淵は、人が神に犯している罪に気づかないことにある。創造主のみことばに応答することはなく勝手に生きているにもかかわらず、災いや気に入らないことが起こると「神はなぜこのようなことを放置するのか」と言い、「我々を守って神であることを証明せよ」と声高に叫ぶのである。
人類は戦争を繰り返しても神を責め立てる時は一致する、十字架のイエスをに対してそうであったように・・。世の終りには、世界が一つとなって神に敵対する世界統一政府が現れるとある。
救い主は、創造主なる神がどれほどに愛しておられるかを知らせようと、今、心の戸をノックしておられる。主の愛を受けていのちを得させる食事を共にして、滅びることの無いいのちを生きよと。
見よ、わたしは戸の外に立ってたたいている。だれでも、わたしの声を聞いて戸を開けるなら、わたしはその人のところに入って彼とともに食事をし、彼もわたしとともに食事をする。(黙3:20)