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ひとり息子の死に嘆き悲しむやもめを見られたイエス様、そのみことばははらわたが動くほどの憐れと聞いたことがある。
「これは、わたしの愛する子」といわれた御父の悲しみと重なる。
主人の癌の宣告を受けて1年半検査検査の病院通いが続いた。
主人には死に捕らわれたような不安な日々を送らせたくないとそのことに私は必死だった。春のうららかさを車窓の桜に見て二人で喜んだり、楽しかったことなどを往復の車内でしゃべり続けて・・、今思えばすべて必死だった。
人は必ず死ぬ。でも主人が死の恐怖に引き回されることは何よりも悔しくて、腹立たしくて、負けまいと死にもの狂いだった。医師より脅しを含んだような言葉を聞くときは、怒りで叫び出しそうになった。
悪魔は死を形にとり、脅して世の荒野を引き回そうとする。「命は決してお前のものではない」と私は心の中で叫び続けていた。
しかし、本当に幸いなことは主人は癌の痛みを経験することもなく、最期の最期まで苦痛のない闘病生活で畑に行ったり自由に暮らしていた。このことを主の何よりのお守りだと深く感謝している。それはどれほど私の慰めだったろう・・。
主人は病気を知ったことで、命のことを真剣に考えるようになったのだと思う。自ら牧師さんに願い出て、洗礼を受けるための個人授業にもひとりで通い続けた。それができるほど体も心も守られていた。
十字架は肉の死を経て、永遠のいのちに移してくださることを知っていてもなを、死を通るときに傷つき深い苦痛を味わう。
今も診察室の前で待っているシーンが、突然そこに居るかのようによみがえり、激しい動悸にがして床から飛び起きてしまうことがあるのだ。
イエス様が死の行列の棺に手を置かれたときその行進は止まった。そう、イエス様によって悪魔の勝利は止められ、死から永遠のいのちへの勝利に移される救いがある。
「もう泣かなくても良い」イエス様のおことばは何時でもご真実である。
言っておくが、およそ女から生まれた者のうち、ヨハネより偉大な者はいない。しかし、神の国で最も小さな者でも、彼よりは偉大である。」(ルカ7:28)
神の国では、誰でも創造された時ように新しくされるのであり、愚かさも欠けももう罪に誘惑されることもないのだ。
息子も小鳥や私の声を聞だろう・・。そこに待っているものは主に賜る完全な勝利である。
この朽ちるべきものが朽ちないものを着、この死ぬべきものが死なないものを着るとき、次のように書かれている言葉が実現するのです。「死は勝利にのみ込まれた。死よ、お前の勝利はどこにあるのか。死よ、お前のとげはどこにあるのか。」(Ⅰコリント15:54~55)