イエスは、これらのことを話されたとき、心が騒いだ。そして証しされた。「まことに、まことに、あなたがたに言います。あなたがたのうちの一人が、わたしを裏切ります。」(21)
イエスは今まさに、一粒の麦となって死んでいのちを与えようとしておられる。
しかし、ユダがサタンに従い悪名を残して滅びゆくことに心を痛められ、平気おられたわけではないのだ。主はいけにえを喜ばれないからである。
弟子たちは、だれのことを言われたのか分からず当惑し、互いに顔を見合わせていた。
弟子の一人がイエスの胸のところで横になっていた。イエスが愛しておられた弟子である。(22~23)
此処にユダとヨハネの違いが明確に現れている。ヨハネが「イエスが愛された弟子」と称して恐れることがないのは、自分を見ることなくイエスに信頼してのことである。主である方の胸元に寄りかかって安らぐほどに・・。
主がヨハネだけが愛されていたわけもなく、イエスの愛はユダの足をも洗うほどに平等である。その愛は12分の1ではなく、すべて主を受け入れる者には、充満して側に居る者にまで溢れ出る愛である。十字架で死んでくださるほどに愛されたのだから。
ユダも同じ愛によって足を洗って頂いたが、彼はイエスの愛に安息することはなく、彼の霊はキリストを求めて渇くこともなく、世で満ち足りる魂の満足を模索していた。
そこで、シモン・ペテロは彼に、だれのことを言われたのか尋ねるように合図した。
その弟子はイエスの胸元に寄りかかったまま、イエスに言った。「主よ、それはだれのことですか。」(24~25)
このような重要な事を聴く時にその態度は何だと思ってしまう。文化の違いもあるとは思うが、彼が如何にリラックスしていたかが伝わって来る。
主は決して威張ることなく友のように交わってくださる方ゆえに、それが重要なことだと気づかぬままに、居住まいを正すこともなく知ろうとしたり、習慣として祈っていることがある。
イエスは答えられた。「わたしがパン切れを浸して与える者が、その人です。」それからイエスはパン切れを浸して取り、イスカリオテのシモンの子ユダに与えられた。
ユダがパン切れを受け取ると、そのとき、サタンが彼に入った。すると、イエスは彼に言われた。「あなたがしようとしていることを、すぐしなさい。」(26~27)
このイエスの言葉を聞き取ったのはサタンだけであった。
サタンは、イエスが彼の計画をご存じで止めないことを知ると行動を開始した。サタンも神の許しの範囲でしか働けない。しかし、すべてはユダが選択した事である。
席に着いていた者で、なぜイエスがユダにそう言われたのか、分かった者はだれもいなかった。
ある者たちは、ユダが金入れを持っていたので、「祭りのために必要な物を買いなさい」とか、貧しい人々に何か施しをするようにとか、イエスが言われたのだと思っていた。(28~29)
イエスの言葉を聞いていればユダが裏切ると分かるはずであるが、同じ言語であっても言葉が通じないことは多々ある。それゆえ神の計画を知るには聖霊の助けが必要なのである。
ユダはパン切れを受けると、すぐに出て行った。時は夜であった。(30)
ユダは夜の闇にサタンに導かれて出て行った。彼がいのちであるイエスの光りに背を向けて闇の中で選び取ったのは、彼には最悪の役割りであり人類には最も重要な役割であった。