ヨハネ13章には、三人の弟子の三様の愛が書かれている。
ユダは、イエスさまと一緒に居ながらイエスさまの愛には無関心であって、自分の愛する金のために夜の闇に去って行った。
弟子のひとりで、イエスが愛しておられた者が、イエスの右側で席に着いていた。(ヨハネ13:23)
ヨハネは「イエスが愛しておられた者」と自称している。これは事実であるけれど・・。イエスさまはすべての人を愛して、ご自分のいのちと引き替えに、罪の滅びから救い出す備えをしてくださったのだから。
彼はイエスさまの愛を真っ正直に受けた人である。自分自身に照らして疑ったりすることはなかった。
だから、十字架の近くに居て母マリヤを託されたのであった。彼が人を恐れることがなかったのは、愛は恐れを閉め出すからである。
黙示録を書くことも、神さまへの深い信頼によらなければできないことである。彼は「見た」自分を信じたのではなく、見せられた方を信じていたのである。
ペテロはイエスに言った。「主よ。なぜ今はあなたについて行くことができないのですか。あなたのためにはいのちも捨てます。」
イエスは答えられた。「わたしのためにはいのちも捨てる、と言うのですか。まことに、まことに、あなたに告げます。鶏が鳴くまでに、あなたは三度わたしを知らないと言います。」(ヨハネ13:37~38)
この時、ペテロはイエスさまを愛する自分自身を信じていた。そうして直後に人の愛の脆さを経験したのだ。
そのことによってペテロは、自分自身に頼む者から、イエスさまのみことばの約束に生き、イエスさまの愛に安息して殉教に至るまで勇敢に働く者とされた。
イエスさまに愛される愛を知らなければ人は何もできない。
私たちは、私たちに対する神の愛を知り、また信じています。神は愛です。愛のうちにいる者は神のうちにおり、神もその人のうちにおられます。(Ⅰヨハネ4:16)
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