女が若くてまだ父の家にいるときに、主に誓願をするか、あるいは物断ちをする場合には、
その父が彼女の誓願、あるいは物断ちを聞いて、彼女に何も言わなければ、彼女のすべての誓願は有効となる。彼女の物断ちもすべて有効となる。
しかし、もし父がそれを聞いた日に彼女に反対するなら、彼女の誓願、あるいは物断ちはすべて無効としなければならない。彼女の父が彼女に反対するのであるから、主は彼女を赦される。
もし彼女が、自分の誓願、あるいは物断ちをしようと軽率に言ったことが、まだその身にかかっているうちに嫁ぐ場合には、夫がそれを聞き、聞いた日に彼女に何も言わなければ、彼女の誓願は有効である。彼女の物断ちも有効となる。(3~7)
此処では、願い事のために物断ちをして神に誓うとき、男性ならそのままに通ることが、女性は父や夫の許可が必要となる。このことは主が命じておられることなので、単純に時代背景で済ますことではない。
女性の意志は父や夫の許しの下にあると言うことである。男性には妻や娘に対して神が与えた権威があるということであり、女性にある制限は神からのものということになる。
しかし、男性が完全な自由の中にあるわけでもなく、彼らには世の支配の下にあってそれらに仕えつつ、与えられた自由の中で妻子を養い守る責任を負っているのである。
今、女性が父や夫の支配を受けずに世に出るとき、男性と同じ世の支配下に置かれるのである。
神の支配下にある者は儘ならぬ世の支配下に在っても、心が押しつぶされることはない。神の愛を味わっている者は不自由な世に縛られていても、その魂は自由であり、主に従う中に在る安息をもっていて、みことばの望みに満たされているのだ。
日々みことばによる主とのお交わりは、神に愛される喜びに満ちて、霊も魂も体も安らぎと満足が与えられるからである。
父や夫の支配を受けていても、柔らかな心でそこにある愛を知っているなら、守られる満足を味わう時となり、それらを通して神に仕える喜びとなるのである。みことばに服する行いは、主を第一に愛してのことである。
主への従順は、愛され祝福されていることを経験する時であり、心配していてくださる主を近しく味わうのである。
それは弱さに虐げられての理不尽ではなく、自分の願い事を脇に置いて主を愛し、みことばに服して身を捧げる行為だからである。
マリヤが宝物の香油をすべて主に注ぎ出して捧げたように、人生の望みを主に注ぎ出す献身である。主は彼女の行いを聖書に記された。
低い所に置かれる者は幸いである。自分自身を主に捧げる場が多くあるのだ。その日々は何よりも神を愛した証となる。