主はモーセにこう告げられた。
「イスラエルの全会衆に告げよ。あなたがたは聖なる者でなければならない。あなたがたの神、主であるわたしが聖だからである。
それぞれ、自分の母と父を恐れなければならない。また、わたしの安息日を守らなければならない。わたしはあなたがたの神、主である。」(1~3)
「父と母」ではなく「母と父」とある。共同訳には「父と母」となっているけれど、口語訳にも「母と父」となっていた。「あなたの父と母を敬え」十戒にはこうあるが、此処は内容が微妙に違っている。
この箇所は聖とされて行くための戒めであった。「母と父を恐れよ」とは「敬え」と同じ意図だと思うが、なぜ言葉が違っているのだろうと思った。
「恐れる」には「敬う」意味を含むけれど、此処ではより従順を意識させている。
主の聖さには愛と謙遜が伴っている。パリサイ人の義には愛も謙遜もなかったので、イエスは彼らを「白く塗った墓」「蝮の末」と言われてその義を否定された。
完全な聖であるキリストは、命を与えるために天の栄光を捨てて地に下り、死を通ってくださったほどの愛であり、大工の子となって人に養われ、教えを受けつつ育つことを選ばれたほどに謙遜であられた。
家長の権威にある父よりも、母の方が「恐れ」をもって仕えることは難しいだろう。これはみことばを恐れることによって成せることである。
「わたしはあなたがたの神、主である。」と言われるに神に従順して、近しい母をも恐れるのである。
19章では労働者の賃金の支払いや、貧しい人に落ち穂を残す決まり、障碍者に対する気遣い、金持ちに偏らない正しい裁判で弱者を守り、在留外国人に対しても、かってのエジプトでの日々を覚えて接するようにと命じられていて、神の細やかな愛が溢れている箇所である。
これらのことは,「聖なる者」であるために命じられているのである。
「わたしはあなたがたの神、主である。」と、神の呼びかけが繰り返されている。神はご自分の民を、栄光を与えるために似た者にしようと導かれる。
今は聖霊の助けの中で、みことばを生きることを求める者に、主がキリストの愛と謙遜を実現してくださる望みがある。神がこのことを願っていてくださるからである。