主はモーセに言われた。「今や、あなたの死ぬ日が近づいている。ヨシュアを呼び寄せ、あなたがたは会見の天幕に立て。わたしは彼に命令を下そう。」モーセとヨシュアは行って、会見の天幕に立った。(14)
モーセに残された時間が差し迫っていた。彼は主の命じられることをすべて成し遂げなければならない。
彼には自分のことを心配する時間はなかったろう。しかし、命の終わりまでみことばに集中できるとは、神を信じる者にとってこれ以上ない幸いである。
主ご自身があなたに先立って進まれる。主があなたとともにおられる。主はあなたを見放さず、あなたを見捨てない。恐れてはならない。おののいてはならない。(8)
もし死が、信頼する神との別れならどれほどの恐怖であろう。しかし、主が共におられることを知っているなら、主に従って働く今日と変わらないのである。
私たちにはキリストが人の死を経験してくださり、よみがえりの新しいからだで弟子に現れ、永遠のいのちを知らせて「平安があるように」と繰り返し語られたことを知っている。
キリスト者も死を経てこそ、キリストの御許で永遠を生きる者なのである。
今朝は「今日という日は二度とない日、大切にお過ごしください」というような言葉が、ラジオから流れて来て一瞬緊張した。
それほど大切な今日に何をするべきか、何を優先して過ごし何を遺すべきなのか・・。
しかし何時ものように主に信頼して過ごし、いつものように主に教えられた言葉を書いている。
モーセは民に在る将来を語り、これから彼らが経験する試練と共に、主は選びの民を見捨てることはないと望みを伝え、イスラエル十二部族にある主のご計画を語った。
モーセは創世記から、イスラエルの将来までを主に聴いて記し役割を完了した。
モーセは命の終わりを明確に知ったが私たちは誰もその時を知らない。それゆえ明日のための備えが必要な身である。
二度とはない時を大切に過ごすにも、「イエスに目覚めていよう」ということである。御声を聴いたら「アーメン」と即答するためである。そうするなら、今日も明日も主の最善に在って、みこころを行うことが出来るのだから・・。
天幕におられた主が、今はキリスト者のうちに近しく近しく居てくださる。すでに充分に価値のある時を過ごしているのだ。
キリスト者には祭司として、今日主にたまわっている大切な仕事がある。それらのすべてを成し遂げるために聖霊のお導きもある。
誰も一寸先のことを知らないけれど、天地創造の神は初めから終わりまでを知っておられるのだ。此処に平安がある。