「もし、私の父祖の神、アブラハムの神、イサクの恐れる方が私についておられなかったなら、あなたはきっと何も持たせずに私を去らせたことでしょう。神は私の苦しみとこの手の労苦を顧みられ、昨夜さばきをなさったのです。」(42)
争いは避けても、神から出た事実は明らかにしなければならない。すべてをご存じの主による導きを、ラバンに解くことは必要であった。
今、人の顔色を恐れてみことばを語らず、示されたことを成さないなら、神の子がさんざん世に利用された挙句に、たまわっている栄光を現わすこともなく、生涯を終えることになる。
どれほど平和を願っていても、みことばにある警告を正確に伝えることは、先に救われた者の最大限の愛であるから。
十字架のことばは、滅びる者たちには愚かであっても、救われる私たちには神の力です。(1コリント1:18)
みことばを聞いた人の肉性が激しく逆らって、「押しつけがましく、愚かなことば」と責められても、みことばを語らない平和は偽りであり、聞いた人の心に刺さったみことばには救いの芽を出す望みがあるのだ。それは、神の愛のことばだからである。
ラバンはヤコブに答えた。「娘たちは私の娘、子どもたちは私の子ども、群れは私の群れ、すべてあなたが見るものは私のもの。この私の娘たちに対して、または、娘たちが産んだ子どもたちに対して、今日、私が何をするというのか。
さあ今、私とあなたは契約を結び、それを私とあなたとの間の証拠としよう。」(43~44)
主の臨在の中に主の平和は生まれる。そこに築かれる平和は神から出ており、曲がった言葉を真っ直ぐにすることができるのだ。
この石塚が証拠であり、この石の柱が証拠である。私は、この石塚を越えてあなたのところに行くことはない。あなたも、敵意をもって、この石塚やこの石の柱を越えて私のところに来てはならない。
どうか、アブラハムの神、ナホルの神、彼らの父祖の神が、われわれの間をさばかれるように。」ヤコブも、父イサクの恐れる方にかけて誓った。(52~53)
神は人にそれぞれの割り当て地を与えて、境界を定め互いの間に平和を与えられる。
それゆえ世界が一つになるということは、どれほど優しく理想的なことのように思えても、神のご計画ではないゆえに、神に逆らう者のバベルの塔である。
人間は自分たちの理想を築きあげるために生きる者ではなく、造り主なる神のご計画に生きて神の栄光を現わす者なのである。
ヤコブは山でいけにえを献げ、一族を食事に招いた。彼らは食事をして、山で一夜を明かした。
翌朝早く、ラバンは孫と娘たちに口づけして、彼らを祝福した。それからラバンは去って、自分の所へ帰った。(54~55)
ラバンの偽りから出た言葉は主の平和の中で事実となった。ヤコブが勇気をもって主のご計画に従順したからである。