シュアハ人ビルダデが答えて言った。
いつまであなたはこのようなことを語るのか。あなたが口にすることばは激しい風のようだ。
神は公義を曲げるだろうか。全能者は義を曲げるだろうか。
もし、あなたが、熱心に神に求め、全能者にあわれみを請うなら、
もし、あなたが純粋で正しいなら、まことに神は今すぐあなたのために起き上がり、あなたの義の住まいを回復される。
あなたの始めは小さくても、その終わりは、はなはだ大きくなる。(8:1~7)
彼の言葉の通りに、神はヨブに義の住まいを回復される。しかし、「今すぐ」というのは性急な人の言葉であり、神は忍耐深いお方であってヨブの時を待っておられる。
彼もヨブの罪を見ていたわけではないのに、目の前の悲惨な様子だけを見て罪の報いと決めつけた。
今、災害の頻繁に現れる終わりの時代に在って、目の前の出来事に、神に成り代わって「罪の報いだ」と言ってはならない。誰が神のご計画のすべてを知ることができるだろう。其処には、神が育てて居られる人が居るかもしれないからである。
シロアムの塔が倒れ落ちて死んだあの十八人は、エルサレムに住んでいるだれよりも罪深い人たちだったとでも思うのですか。(ルカ13:4)(イエス・キリスト)
ビルダデ
見よ。神は潔白な人を退けない。悪を行う者の手を取らない。
ついには、神は笑いをあなたの口に満たし、喜びの叫びをあなたのくちびるに満たす。
あなたを憎む者は恥を見、悪者どもの天幕は、なくなってしまう。(8:20~22)
確かに神はヨブに笑いを満たされる。後に、ヨブを責めた彼らが神の憐みを受けるのは、自分たちの弱さのゆえにヨブを責めつつも、友として側に居たからである。
ヨブは答えて言った。
まことに、そのとおりであることを私は知っている。しかし、どうして人は自分の正しさを神に訴えることができようか。
たとい神と言い争おうと思っても、千に一つも答えられまい。(9:1~3)
後に、神がヨブに語られた時、確かに彼は何も答えられなかった。しかし、ヨブのすべて言葉を読むときは、自分の身に重ねて読まなければヨブ記の意味がわからない。正しい言葉は何なのか・・ということではない。
神は、ヨブがはらわたまでが曝け出すようにして、洗いざらい語るのを待たれる。試練の時に神は、きよめるためにその人の信仰を光の下に引き出される。
神は心に知恵のある方、力の強い方。神に身をこわくして、だれがそのままで済むだろうか。
神が山々を移されるが、だれもこれに気づかない。神は怒ってこれをくつがえされる。
神が地をその基から震わすと、その柱は揺れ動く。
神が太陽に命じると、それは上らない。星もまた封じ込められる。
神はただひとりで天を張り延ばし、海の大波を踏まれる。(9:4~8)
大患難時代には、漫然と続いていたものが揺さぶられ、その真実を問われてあいまいなものは覆される。今、新しく生まれて備えよと言われている。みことばの導きに頑なになっていては、誰が救われよう。
たとい、私が呼び、私に答えてくださったとしても、神が私の声に耳を傾けられたとは、信じられない。
神はあらしをもって私を打ち砕き、理由もないのに、私の傷を増し加え、
私に息もつかせず、私を苦しみで満たしておられる。(9:16~18)
すべては神の祝福の中に在り、それはヨブが新しく産みだされるための苦しみである。
恐れることは無い、神は私たちの呻きをそのまま受け止めてくださる。
私たちの祈りが整えられただけの現実離れしたものなら、神は聞いておられない。心の底まで知っておられる方に、そのような演技は無意味だからである。
サタンがキリストに十字架を準備したとて、それによって神の計画は完成したのだ。神の愛に留まる者に成るのは、如何なる時も神の良きご計画である。
ヨブの正しさは、あらゆる言葉を使って理不尽だと叫んでいても、神の御前に座していることにある。
神は私のように人間ではないから、私は「さあ、さばきの座にいっしょに行こう」と申し入れることはできない。
私たちふたりの上に手を置く仲裁者が私たちの間にはいない。
神がその杖を私から取り去られるように。その恐ろしさで私をおびえさせないように。
そうすれば、私は語りかけ、神を恐れまい。いま私はそうではないからだ。(9:32~35)
神が待っておられるのは、仲裁者を求める人の叫びである。激しくキリストを求める声である。
キリストの他に救いは無く、神はキリストによって救おうと計画された。神が人なって来てくださり、共に歩いてくださることを求めるヨブの叫びは、みこころに叶っている。