イエスはこの十二人を遣わす際、彼らにこう命じられた。「異邦人の道に行ってはいけません。また、サマリア人の町に入ってはいけません。
むしろ、イスラエルの家の失われた羊たちのところに行きなさい。
行って、『天の御国が近づいた』と宣べ伝えなさい。
病人を癒やし、死人を生き返らせ、ツァラアトに冒された者をきよめ、悪霊どもを追い出しなさい。あなたがたはただで受けたのですから、ただで与えなさい。(5~8)
主は弟子を用い為さるとき、すべてを指示し導かれる。何処に行くのか、何をするのか、どのようにするのか、私たちはすべてを教えられ、すべての必要をたまわらないと何も出来ないからである。まして、神のみこころなど分からないのだ。
行く道を示し、神のわざを成すために、癒やしの力、悪霊に命じる権威を与え、語るべき言葉をも日々に教えてくださる。
それらは確かにただで与えられたものであり、弟子はその光栄なわざを神から受けたように人に与える。
神からの良きものがすべてただなのは、支払おうにも神のわざに釣り合うものなど、誰も持ってないからである。
胴巻に金貨も銀貨も銅貨も入れて行ってはいけません。
袋も二枚目の下着も履き物も杖も持たずに、旅に出なさい。働く者が食べ物を得るのは当然だからです。(9~10)
神のわざは、人から代価を取らず自分のものも用いない。自分の力や才能を用いることは、聖い神のわざに汚れたものを持ち込むことであり、神の無限を有限にしてしまうからである。
ただ、すべて主が備えてくださったものによって導かれるままに働くには、どれほど主に聴き続ける必要があることだろう。
どの町や村に入っても、そこでだれがふさわしい人かをよく調べ、そこを立ち去るまで、その人のところにとどまりなさい。
その家に入るときには、平安を祈るあいさつをしなさい。(11~12)
平安を祈るにふさわしい家、主を求めている人の家を探すのだ。
今も、主に遣わされた人が探している気がする。「主よ、あなたの御声が聴きたいのです」と叫んでいる家を求めて・・。
その家がそれにふさわしければ、あなたがたの祈る平安がその家に来るようにし、ふさわしくなければ、その平安があなたがたのところに返って来るようにしなさい。
だれかがあなたがたを受け入れず、あなたがたのことばに耳を傾けないなら、その家や町を出て行くときに足のちりを払い落としなさい。(13~14)
主に祈る祈りは、神のご真実をもって聞いていてくださるゆえ、どのような形でか実を結ぶのである。
私はこの個所を読むたび思い出すことがある。
ずいぶん以前、韓国から宣教チームが教会に来られ、地域へのテープの配布を、願って手伝ったとき、昼食の時間を過ごしてくださいと招いたら、車を止めるなりわらわらと飛び込んで行って、それぞれ床に跪いて祈られた。
私が少し待ってもらって片付けようとした間も無く、彼らは跪いて祈られた。しかし、散らかった部屋の恥ずかしさも忘れる、深い感動に心が震えた。
日々に平安を覚える中で、彼らの祈りによる恵みを思い出すのだ。
「平安がその家に来るようにし」それは、世的な配慮を優先するのではなく、真っ直ぐに主の言いつけ通りに行動する単純さでもあると思った。
それにしても、ご真実な神に祈られることほどの幸いは何ものにも比べられない。