イエスは十二弟子を呼んで、汚れた霊どもを制する権威をお授けになった。霊どもを追い出し、あらゆる病気、あらゆるわずらいを癒やすためであった。(1)
こんなに大切な個所を先日は読み飛ばしていた。繰り返し、繰り返し読む必要を改めて納得。
汚れた霊どもを追い出すことであらゆる病気、あらゆるわずらいが癒されるとある。汚れた霊が、体にあらゆる病気を持ち込み、魂にあらゆるわずらいを持ち込んでいた。それらは「あらゆる」とありすべての病気、すべてのわずらいである。
十二弟子がたまわった権威であるからキリスト者には無理・・、などとは思えない。この時の弟子たちに与えられた権威は一時的なものであったが、今、キリスト者のうちには三位一体の神がおられる。
神の命令を守る者は神のうちにとどまり、神もまた、その人のうちにとどまります。神が私たちのうちにとどまっておられることは、神が私たちに与えてくださった御霊によって分かります。(Ⅰヨハネ3:24)
神が私たちに御霊を与えてくださったことによって、私たちが神のうちにとどまり、神も私たちのうちにとどまっておられることが分かります。(Ⅰヨハネ4:13)
だれでも、イエスが神の御子であると告白するなら、神はその人のうちにとどまり、その人も神のうちにとどまっています。(Ⅰヨハネ4:15)
あなたがたは神によってキリスト・イエスのうちにあります。キリストは、私たちにとって神からの知恵、すなわち、義と聖と贖いになられました。(Ⅰコリント1:30)
私たちをあなたがたと一緒にキリストのうちに堅く保ち、私たちに油を注がれた方は神です。(Ⅱコリント1:21)
あなたがたは、信仰に生きているかどうか、自分自身を試し、吟味しなさい。それとも、あなたがたは自分自身のことを、自分のうちにイエス・キリストがおられることを、自覚していないのですか。あなたがたが不適格な者なら別ですが。(Ⅱコリント13:5)
私は自分のうちに力強く働くキリストの力によって、労苦しながら奮闘しています。(コロサイ1:29)
私たちは真実な方のうちに、その御子イエス・キリストのうちにいるのです。この方こそ、まことの神、永遠のいのちです。(Ⅰヨハネ5:20)
私たちがキリストのうちにおり、三位一体の神が私たちのうちにおられる。神が命じられたことを行うのに、これ以上の完璧な備えは無い。
みことばをそのまま受け入れなければ従順することはなく、聴いたみことばが成就することもない。
聖書を一冊まるごと覚えても、みことばを細部まで調べて知っていても、聖霊の働きに自分自身を従わせなければ、うちなるキリストを知ることはなく、導きの確信も得られず、それによって主の栄光を現わすこともない。
みことばを信じて従順する時の緊張感や、ギュッと身が引き締まるような恐れ、震えながらすべてを差し出す信仰の冒険に在るキリストとの交わりは甘く慕わしい。
非難に曝されつつみことばを語り続ける中で、キリストの御手に掴まれて引き上げられる。キリストへの従順には、深いいのちの喜びが用意されてある。
みことばのパンを食べ続けるだけならメタボになる。食べたみことばは、それを生きることで消費しなければ、人の肉性を肥らせるだけとなる。
みことばに備えられている、コロナも鬱も癒やす力。それは、キリスト者のうちにいて下さる神から出たことばである。
わざは神の権威によることであり、キリスト者はただ、聴いた言葉に従順して命じられた働きを成すのである。資格はただ、キリストを宿していることにある。