
人の子が、その栄光を帯びて、すべての御使いたちを伴って来るとき、人の子はその栄光の位に着きます。
そして、すべての国々の民が、その御前に集められます。彼は、羊飼いが羊と山羊とを分けるように、彼らをより分け、羊を自分の右に、山羊を左に置きます。(マタイ25:31~33)
羊はみことばによって永遠の救いを語り、山羊は人の言い伝えを語って滅びをもたらす。羊と山羊の違いは主の必要を満たすことにある。
「まことに、あなたがたに告げます。あなたがたが、これらのわたしの兄弟たち、しかも最も小さい者たちのひとりにしたのは、わたしにしたのです。」(マタイ25:45)
主の必要は最も小さな者の必要を満たすことであり、最も小さい者に目を止めることは肉の目には出来ない。ましてその必要を知ることなどできるわけがない。
神は霊だからそれを知るには霊に拠るほかない。だから肉は、主の必要を満たしていることにも、満たしていないことにも気付かず「何時私がそんなことをしましたか」と言うのである。
「空腹であったとき、わたしに食べる物を与え、渇いていたとき、わたしに飲ませ・・」
霊の飢え渇く者に何の代償も求めず、みことばを語って食べさせ聖霊の豊かないのちの泉に導き、
「わたしが旅人であったとき、わたしに宿を貸し・・」
心空しくさまよう者に、見返りを求めず天にある永遠の住まいを知らせ、
「わたしが裸のとき、わたしに着る物を与え・・」
恥に悩む者に、キリストの完全なあがないによって覆われる平安を知らせ、
「わたしが病気をしたとき、わたしを見舞い・・」
命の終わりをおびえる人に、執り成しの祈りをもって永遠のいのちを知らせ、
「わたしが牢にいたとき、わたしをたずねてくれたからです。」
言い伝えの中に閉じ込められている者に主の解放を告げ、屠られたキリストの肉を食べ、十字架で流された血を飲むようにして救われなさいと伝える。
偉大な神の御子は、最も小さく仕える者なって来てくださり、すべての律法を成し遂げて、罪の重荷から解放してくださった。
辛子種のように小さく、パン種のように小さなものは見過ごされる。しかし辛子は小さな種を食べるもの。種から生長した木に集まる鳥を取って食べることは、主のみこころである。それは「神がきよめたもの」とペテロに言われたものである。
永遠のいのちを得る価値あるものは、聖霊によって導かれる。聖霊は蓄えられたみことばを思い出させて、みことばの約束を成就させてくださるのである。
終わりの日に備えて、水にパンを撒くようにみことばを語ろう。資格も無学もこの世のものには関係なく、持論でもなく、主が備えて話させてくださるとおりに語るのだ。
それは「あなたがたに」とあるように、多くの人がたまわっているものである。
どんな反対者も、反論も、反証もできないようなことばと知恵を、わたしはあなたがたに与えます。(ルカ21:15)
聖霊はみことばを思い出させてくださるから、常にみことばに親しみ留まっていることは必要であるけれど、主は時を備えて語る言葉に導いてくださる。