
「ムベちゃん!近くまで来たから寄ったよ」玄関に飛び込んできた懐かしいお客さん。「上がって上がって・・」手を取るようにして招き入れ互いに気楽な寡婦さん同士。日が暮れるまでしゃべっていた。
「ツーカーで通じる人が欲しかった・・」と言われた。同じだけの年輪を重ねておればこそ何年も会っていなくても、昨日に続く今日のように通じ合える。
彼女は嫁いだ村の婦人会などでご一緒した方、その後も尋ねてくださったことはあるけれど、私は村を離れて4~50年になる。「ちゃん」付けで呼んでもらえるのは、あの頃の知り合いだけである。
しかし・・最も親しくしていた友人は年下なのに先に逝ってしまわれて、村のことを思い出すと彼女のことがとても悲しいと話す。
名家と言われた家が彼女の亡き後、一気に没落してしまったことを聞くことになって、想像も出来なかった無残さに胸が塞ぐ。
華やかだった彼女を懐かしみ、ふたり一緒だから思い出に浸ることができた。一人で思い出すのは切な過ぎるから・・。
長生きをすることは、それだけ多くの悲しみを味わうことでもある。沢山の友人と行き来をすることは楽しいけれど、親しければなをさらに一転辛い目を見ることになる。
私はそれをとても恐れて、つい孤独に逃げ込んでしまう・・。
「今は、ホームドラマとかないでしょ、そもそも昔のようなホームがないからね。あの頃よりも住まいも、着物も、食べ物も豊かになっているのに、なぜか余裕が無くなったね」
「まあ、昔は世間体という箍があったから、そこで忍耐もしたり頑張ったりしたけれど、今はてんでに生きているから、離婚でもなんでもありになってしまって・・」
「色々な意味で社会が貧しくなってしまったね。」
「貧困、貧困と言っている。昔はもっともっと貧しかったけれど、お互いさまでそんなことは言わなかった」
「子供の頃、たまに食べさせてもらったアンパンは嬉しかったわ。今の人はあの味は知らないから可哀想よ」
「そうそう、あのアンパンの味は知らないやろうね・・」
胸に溜まっている日頃の思いを・・まだまだ口は達者。世の移り変わりに老人はストレス感じていたのだ。
暗くなって来た山道を運転する彼女に「気を付けてよ。夜走ったことはあるの。」
目も衰えているのだからと気がかりなのである。彼女は車の窓から
「今度はうちに来て。帰るのが面倒なら泊まったら良いよ」
「その手があったね」
再会を約束するようなしないような別れ方には、これっきりということも含まれている。
先立った友の時も・・、笑顔で賑やかに別れてそれっきりになってしまった。