彼女はまた身ごもって男の子を産み、「今度こそ、夫は私に結びつくでしょう。私が彼に三人の子を産んだのだから」と言った。それゆえ、その子の名はレビと呼ばれた。(29:34)
ヤコブはラケルを愛し、妻であってもレアは片思いのようだった。それゆえ神はレアを憐れんで、夫の義務を果たすという関係をも祝福して、レアに6人の男の子を与えられた。レアは子どもを産むことで夫の愛を得ようとした。
報道で子どもの虐待を知ってとても心痛むのは、その子たちが可愛い名前を持っていることである。親は産まれた我が子を喜んで心から愛し、考えて付けたことが伺えるからである。しかし、罪に歪んだ愛は脆く不自由なものとなってしまったのだ。
十字架で命まで与えて人の罪をあがなってくださったキリストを、「私のために・・」と個人的に神の愛を受け取ることによって、人は愛に満ち足りて安息を得る。
「あなたの隣人を自分自身のように愛しなさい」は神の命令であるが、それは、神に愛されている自分を知ることによって、外に広がってゆく愛である。
神は、無視され虐げられている者の味方をしてくださる。このことを聖書の中から学んでいる者が、自己憐憫に陥ることはない。すべての人が敵のように思える時も、神が心配していてくださることを、聖霊によって刻まれたみことばから知っているからである。
ラケルは自分がヤコブに子を産んでいないのを見た。ラケルは姉に嫉妬し、ヤコブに言った。「私に子どもを下さい。でなければ、私は死にます。」
ヤコブはラケルに怒りを燃やして言った。「私が神に代われるというのか。胎の実をおまえに宿らせないのは神なのだ。」(1~2)
ラケルは奴隷のビルハを夫に与えて、生まれた子を自分の子の代わりにした。そのような泥沼の女の戦いが続くが・・、ラケルの時は憐みのうちに備えられていた。
神はラケルに心を留められた。神は彼女の願いを聞き入れて、その胎を開かれた。
彼女は身ごもって男の子を産み、「神は私の汚名を取り去ってくださった」と言った。
彼女は、その子をヨセフと名づけ、「主が男の子をもう一人、私に加えてくださるように」と言った。(22~24)
神の祝福によって結ばれる一人の夫に一人の妻は、神の初めからの祝福のかたちであり、そこには平和があり、共に過ごす年月に経験した良いこと、辛いことなども、味わいであって互いを堅く結びつけ、感謝に満ちて心からの一体としてくださる。
しかし神は、人のあらゆる弱さや人間的な遣り繰りの中の、叫びのような祈りの中に介入してくださり、訓練のうちに良いご計画を成させて下さる。ヤコブは父イサクの祈りのように、神の祝福によって十二部族の祖を生んだ。
私たちが真実でなくても、キリストは常に真実である。ご自分を否むことができないからである。」(Ⅱテモテ2:13)