ルベン族、ガド族、マナセの半部族はイスラエルの分団のかしらたちに答えて言った。
「神の神、主よ、神の神、主はご存じです。イスラエルもこれを知りますように。もしこれが、主に対する反逆や不信の罪をもってなされたのなら、今日、私たちをお救いにならないでください。(21~22)
彼らは思わぬ疑いを掛けられたときに「神の神、主よ。」「神の神、主よ」二重に二度も主の御名を呼んで助けを求め叫んだ。
「反逆なら救わないで」と、真実を知っていてくださる主に命を捧げての祈りでもある。
キリスト者も時に攻撃されたり脅されることもあるが、その時の身の避け方は唯一「神の神、主の主よ」と御名を呼ぶことだけである。向き合って語る人もなければ、唯一の弁護者であるキリストを求めて叫ぶのである。
御霊ご自身が、私たちの霊とともに、私たちが神の子どもであることを証ししてくださいます。(ローマ8:16)
神の子であることを否定される時、誰も自分でその証を立てることは出来ない。ただ主に向かって叫ぶ事しかできない時、完成されている救いを明らかにしてくださるのは御霊の働きである。
私たちが祭壇を築いたことが、主に従うのをやめることであるなら、あるいは、その上で全焼のささげ物や穀物のささげ物を献げるため、あるいはその上で交わりのいけにえを献げるためであるなら、主ご自身が私たちを責めてくださいますように。(23)
偶像礼拝の場とは違うのだと真実を伝え、もし、背いているのなら主に責められること求め、すべての事を神に委ねている。そうして、同胞イスラエルを信頼して言葉を尽くして説明をした。
丁寧な説明は相手を信頼した時に出来ることである。聞く耳を持っていてくれるからこそ、落ち着いて申し開きが出来たのである。
人は不信の中で丁寧に言葉を交わすことは非常に困難であり、戦争はこの中で起こるのだ。
「しかし、私たちがこのことをしたのは次のことを恐れたからです。後になって、あなたがたの子らが、私たちの子らに次のように言うかもしれません。『あなたがたとイスラエルの神、主との間に何の関係があるのか。
主はヨルダン川を、私たちと、あなたがたルベン族、ガド族との間の境界とされた。あなたがたは主のうちに取り分がない。』こうして、あなたがたの子らが私たちの子らに、主を恐れることをやめさせるかもしれません。」(24~25)
彼らはイスラエルへの反逆ではなく、むしろイスラエルの子孫に忘れられて、自分たちの子孫が主を離れることを恐れたと伝えた。祭壇は主の民としての証であり、自分たちの礼拝の対象ではないことを説明している。
この祭壇は奉仕と主に在るイスラエルの交わりのためであり、子孫に自分たちがイスラエルであることを教えて、それを証するためであると伝えた。
祭司ピネハス、会衆の上に立つ族長たち、彼とともにいたイスラエルの分団のかしらたちはルベン族、ガド族、マナセ族が語ったことばを聞いて、それに満足した。(30)
イスラエルの危機は冷静で愛深い言葉をもって、平和のうちに主の勝利となった。
隔てられた距離が罠となることがあるが、彼らは目に見たことをもって早急に結論を出すことせず、初めに祭壇を見て騒ぎ出した者の代表でもなく、主に備えられた聞く耳をもっていたからである。
イスラエルの子らはこれに満足した。彼らは神をほめたたえた。そしてもはや、ルベン族とガド族が住んでいる地を滅ぼすために戦をしよう、とは言わなかった。
ルベン族とガド族はその祭壇に「これは私たちの間での、主が神であることの証しだ」と言って名をつけた。(33~34)
主がほめたたえられることこそ愛された者の願いであり、何時の時代も何処にあっても、変わらぬ神の子らの働きであり、聖霊に導かれて世を駆け抜け、再び来られるキリストを待つ姿である。
どうか、忍耐と励ましの神があなたがたに、キリスト・イエスにふさわしく、互いに同じ思いを抱かせてくださいますように。(ローマ15:5)