救われた者は失敗を悔いるために吐いたものを覗きに戻ることはなく、何処から救われたかは決して忘れることはない。ペテロは二度と主を否むことはなく、また事実を悔やむこともしない。
人は、創造主なる神を蔑ろにした罪は何一つ覚えてはおらず、すべての罪を悔い改めることは不可能である。
神と断絶させるその罪は、キリストが十字架の上で御父に見捨てられて、人知れずに贖ってくださったことである。
それゆえ今「アバ父」と御名を呼び、罪を未だ知らない幼子のように御許に安らぐことを得たのである。
主の憐みにあって赦され、キリストの復活と言う神の備えによって新しくされ、今や神の子の光栄を抱いて生きており、罪の記憶は神が忘れてくださったと同時に遠いものとなったのである。
だれでもキリストのうちにあるなら、その人は新しく造られた者です。古いものは過ぎ去って、見よ、すべてが新しくなりました。(Ⅱコリント5:17)
罪の結果である、滅びの死から救われた事実を明確に悟ることが出来るのは、キリストのバプテスマに拠ることであり、肉を焼ききよめる炎のバプテスマの経験である。この時すべての罪がキリストに拠って死に、キリストと共に復活したことである。
すると天から突然、激しい風が吹いて来たような響きが起こり、彼らが座っていた家全体に響き渡った。
また、炎のような舌が分かれて現れ、一人ひとりの上にとどまった。(使徒2:2~3)
この時もう誰も「私は救われていますか」と問うことはない。きよめの焼き印を霊にも魂にも帯びているからである。たとえ世界中がら否定されても、その確信を消すことは出来ない。
使徒たちが聖霊を受けて劇的に変化したのは、このキリストのバプテスマによる赦しの確信であり、キリストに拠って新しく生まれた体験に拠るのだ。
「この方以外には、だれによっても救いはありません。天の下でこの御名のほかに、私たちが救われるべき名は人間に与えられていないからです。」
彼らはペテロとヨハネの大胆さを見、また二人が無学な普通の人であるのを知って驚いた。また、二人がイエスとともにいたのだということも分かってきた。(使徒4:12~13)
もうペテロはかって自分自身がどうであったかと問う必要は無く、ただ、今日主に聴いたことを成そうと、聴いた言葉の通りに生きて、経験したキリストを死ぬまで語り続けたのである。
語る言葉は聖霊による備えであり、語らせる力はキリストのバプテスマによる確信である。その人はキリストのうちに留まって聴いたことばを語り、示されたことは何でも出来るようになる。
しかし、あなたがたのうちには、御子から受けた注ぎの油がとどまっているので、だれかに教えてもらう必要はありません。その注ぎの油が、すべてについてあなたがたに教えてくれます。それは真理であって偽りではありませんから、あなたがたは教えられたとおり、御子のうちにとどまりなさい。(Ⅰヨハネ2:27)