ある時期、息子とは一心同体のように生きてきたけれど、彼と私は全く違う人間であり、人生の課題も違う。
私にとっては、突然来たような子供の障害は乗り越えるべきもの、闘うべきものと見えたけれど、生まれたときから聞こえない彼にとってはそれが日常であり、乗り越えるものではなく共に生きるもの、だから彼は障害とは闘わない。それは彼にとっては彼自身だから。
すべての事の中に私は主の愛の御手を見るし、過去を振り返るたびどこを切り取っても主の憐れみの中だったと、信仰生活は本当に一本道だと今回も気づいたけれど、それは私の人生のことであり私の信仰生活のことで、息子のことを語っているようだけど、実は「障害児を持った親」のことであり自分のことにすぎない。
実は、「障害」なんてものは誰でも持っている。私は忘れっぽくって、字が下手で、人見知りがあって、人になかなか馴染めないという社会生活上困った障害を持っている。「障害者」という言葉は単に程度の問題に過ぎないと思う。誰にとっても障害は乗り越えるものではなく、受け入れて済むのならそれは最善だと思う。「いろんな人がいる。」それで済むなら住み良い社会。
ただ、人生をより豊かに暮らすために、歩けないなら道具を使って移動できる方が良いし、見えないなら詳しい説明をしてあげることで知ることが出来る世界がある。聞こえないなら手話や筆記によって世界を広げること、不便を取り除くことが出来るからそれは必要だけれど、乗り越えるというものではないと思う。
まして、障害者に「乗り越えろ」ということはとんでもない間違い。受け入れるだけしかない障害だって沢山ある。たいがい年を取ると徐々に痴呆ぽっくなる。なるべくなら私は穏やかな痴呆になりたいと思うけれど・・そんなことは選べない。
子供が障害を乗り越えようと頑張っていると見えても、それは親の方から見た感想であり、子供は乗り越えようとは思ってはいないと思う。ただ、成長しているだけ。障害があっても、いのちがあれば子供は成長するから、普通に成長しているに過ぎないのではないかと、今は思う。
親は、ただそれをちょっと工夫をして手助けすることだけ。どんな子供だって放って置いては良い成長は出来ないように、よく見ていてタイミング良く手を貸す。ちょっと導く。それは障害のあるなしに関わらないほとんど普通の子育てと同じこと。ただ、労力が普通よりは必要なことも事実だけれど・・・。
それも子育ての襞を深く刻む作業であり、親の視野を広げ、新しい価値観に出会うことになるから決して損には成らない。食べてみないと分からない深い味わいを、親はその行いに応じて味わうことが出来る。それは間違いなく神様から特別に賜った人生の価値ある果実だと思う。
これが障害児を育てた親の味わったもの。決して障害者自身のものではない。障害者自身の人生それは私は知らない。神様は彼らにはどんなものを準備して居られるのだろう。少なくとも、はじめから「自分の弱さを知る」という素晴らしいプレゼントがあることだけは事実。それこそ主を知ることの入り口だから。
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石ころ
tieko
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