石ころ

使徒の働き㉓(使徒13章)

 

パウロの一行は、パポスから船出して、パンフリヤのペルガに渡った。ここでヨハネは一行から離れて、エルサレムに帰った。(13)

 

ややこしいけれど、このヨハネは青年マルコ。パウロが彼の脱落を怒っていたことは、後に、連れて行くことを拒み(15章)激しい議論となったことでわかる。
その結果バルナバがマルコを連れてキプロスに行き、パウロはシラスを連れて行くこととなった。結果、宣教は二組となり神のご計画が前進する。

 

聖書には取り繕いや綺麗ごとはないので、後に続く私たちの問題を重ね合わせて考えることができる。それは私たちの慰めや希望となる。
使徒といえども、肉をもって生きている間は、誰もが完全ではないのだ。

 

主は私たちの作者なので、その人の強さや弱さも、ご計画の中に織り込み済みであり、聖書には一方的な忍従を強いられる弟子はおらず、イエスはユダの自由意思さえ重んじられた。キリスト者の従順はそのこと故に価値があるのだ。

 

あなたがたの指導者たちの言うことを聞き、また服従しなさい。この人々は神に弁明する者であって、あなたがたのたましいのために見張りをしているのです。ですから、この人たちが喜んでそのことをし、嘆いてすることにならないようにしなさい。そうでないと、あなたがたの益にならないからです。(へブル13:17)

 

指導者に服従することは良いことである。しかし、マルコは従えなかったのだ。服従できない理由はさまざまあろう。責められた時、それを言わないことが慎みや愛であることもある。


ただ、神である聖霊のお導きは、この言葉に勝ると個人的には思っている。少なくともマルコは神の許しにあった。

主は義を通されるが性急ではなく、私たちには忍耐強く導いて、赦しを備えていてくださる。それは、私たちの完成図を持っておられるからである。

 

伝道の働きが我慢によってではなく、たとえ苦難の中にあっても消えることのない救いの喜びと、罪定めからの解放による希望と、キリストにたまわった平安の中で広がって行くものである。

 

うちに居られる聖霊は私たちを知り尽くし、あらゆる場合に神の益に導いてくださる。行き詰った時は新しい展開が備えられていて、ご計画は世の初めから完成されているのだ。問題の中に在ってもキリストのうちに留まるなら、そのいのちのうちに完成されて行く。

 

神はひとりとして全く同じ人を造られなかった。親子も兄弟もそれぞれ違っている。双子でもすべてが同じひとりのようではない。一人ひとりが母の胎で神によって組み立てられた作品だからである。

 

違っているから議論をする。知らせたいと思い、知りたいと思って追求する。それは互いが必要だからである。
皆キリストのかだらの一つの器官であり、一つが痛めば体全体が痛むのである。一つの器官が支配しているものではなく、支配は頭なるキリストである。

 

世に生きている間は、互いに怒ったり、泣いたり、笑ったり・・、心配したり、かばったり、そうした執り成しの祈りにある神の家族。みなイエス・キリストを何よりも愛して喜んで居り、キリストの愛に安息している者なのだ。

 

キリストによって、からだ全体は、一つ一つの部分がその力量にふさわしく働く力により、また、備えられたあらゆる結び目によって、しっかりと組み合わされ、結び合わされ、成長して、愛のうちに建てられるのです。(エペソ4:16)


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