彼らが食事を済ませたとき、イエスはシモン・ペテロに言われた。「ヨハネの子シモン。あなたは、この人たち以上に、わたしを愛しますか。」(15 a)
「この人たち以上に、わたしを愛しますか」なぜ、他の弟子と比べるような言葉を使われたたのだろうと考えた。そこで、思い出したのはペテロの言葉であった。
ペテロがイエスに答えて言った。「たとい全部の者があなたのゆえにつまずいても、私は決してつまずきません。」(マタイ26:33)
イエスは時に私たちの過去の言葉を明るみに出して、戒めとされることがある。ペテロにとってこれは重い課題だからである。
この後、彼一人がつまずいて、イエスを3度も「知らない」と言ったのだった。この問題を放置して、先に進むことは出来ないからである。
ペテロはイエスに言った。「はい。主よ。私があなたを愛することは、あなたがご存じです。」イエスは彼に言われた。「わたしの小羊を飼いなさい。」(15 b)
イエスが問われたのは、「神の愛」で愛しますか。という意味の言葉であったが、ペテロは「人の愛」という意味で答えている。それは、彼が自分をわきまえての言葉であろう。しかも、その愛の中身は「あなたがご存じです」とイエスにお委ねした。
イエスは再び彼に言われた。「ヨハネの子シモン。あなたはわたしを愛しますか。」ペテロはイエスに言った。「はい。主よ。私があなたを愛することは、あなたがご存じです。」イエスは彼に言われた。「わたしの羊を牧しなさい。」(16)
此処でもイエスは神の愛で問われているが、ペテロは人の愛で答えている。一方的に愛する完全な神の愛にはとうてい及ばないことを、彼は知っていた。それは、神の愛を彼が経験しているからである。一方的に赦して決して変わらぬ神の愛を、知っていたからである。
イエスは三度ペテロに言われた。「ヨハネの子シモン。あなたはわたしを愛しますか。」ペテロは、イエスが三度「あなたはわたしを愛しますか」と言われたので、心を痛めてイエスに言った。「主よ。あなたはいっさいのことをご存じです。あなたは、私があなたを愛することを知っておいでになります。」イエスは彼に言われた。「わたしの羊を飼いなさい。(17)
此処ではイエスは人の愛で問われた。彼の所に下って来て、人には精一杯の愛を受け入れてくださったのである。完全ではないけれど人が互いに愛し合う愛で、イエスを愛することを受け入れてくださったのだ。
「いっさいのことをご存じです」彼の弱さも、情けなさも、知って居られる主にすべて信頼しての答えである。三度聞かれたことに胸を痛めたのは、それがイエスを否んだ数であることに気づいたからであろう。
しかし、イエスは此処で彼の不信仰の失敗を、公に愛の告白で上書きされたのである。
「小羊を飼いなさい」「羊を牧しなさい」「羊を飼いなさい」この三度繰り返された命令は、ペテロに将来を与えるものである。
イエスを否定した数だけ信仰を告白させ、良き将来を備えてくださり、彼の失敗は完全に益とされ、ペテロはもう過去の失敗に悩む必要はなくなったのである。