みなが食事をしているとき、イエスは言われた。「まことに、あなたがたに告げます。あなたがたのうちひとりが、わたしを裏切ります。」
すると、弟子たちは非常に悲しんで、「主よ。まさか私のことではないでしょう」とかわるがわるイエスに言った。(マタイ26:21~22)
「まさか私ではないでしょう」と言ったことで、弟子はみな内に同じ不安を持っていたことがわかる。イエスさまを「裏切るかも・・」という不安であろう。
イエスは弟子たちに言われた。「あなたがたはみな、今夜、わたしのゆえにつまずきます。『わたしが羊飼いを打つ。すると、羊の群れは散り散りになる』と書いてあるからです。」
「まことに、あなたに告げます。今夜、鶏が鳴く前に、あなたは三度、わたしを知らないと言います。」
ペテロは言った。「たとい、ごいっしょに死ななければならないとしても、私は、あなたを知らないなどとは決して申しません。」弟子たちはみなそう言った。(マタイ26:31.34~35)
不安は虚勢を張る。「まさか私が・・」という不安も、「死さえもごいっしょに・・」という虚勢も、同じく不確かさから出たものである。
イエスさまが十字架に向かわれる最後の祈りの時も、イエスさまが祈っておられる間も起きていることさえできず、言葉とはうらはらに弟子は無力であった。
それから、イエスは弟子たちのところに戻って来て、彼らの眠っているのを見つけ、ペテロに言われた。
「あなたがたは、そんなに、一時間でも、わたしといっしょに目をさましていることができなかったのか。
誘惑に陥らないように、目をさまして、祈っていなさい。心は燃えていても、肉体は弱いのです。」(マタイ26:40~41)
イエスさまは彼らを叱責されているのではない。
心の燃えていることも、肉の弱さも知っていてくださるのだから・・。ただ、人の事実を指摘しておられる。肉の力でイエスさまに従うことはできない。肉体も肉性も誘惑に弱いものである。
弟子たちは聖霊を受けて変えられた。聖霊はいつもイエスさまの言葉を思い出させて、それを行う力を与えるからである。
「誰も反論も反証もできない言葉」とは、聖霊によって示されるみことばであり、自身に向かってもピシャリと肉を砕く守りである。
聖霊はキリスト者の内に居られて、その人を知り尽くし・・そう、それは神がねたむほどの親しさなのである。
人生を主に委ねる者に、常にみことばによって語り安全に導いてくださる。自分の一寸先もわからない者が、みことばの灯火によって永遠に案内されるとき、深い平安によって不安も虚勢も消えて行くのである。
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