イエスが十字架で死んで墓に葬られ、三日目に黄泉よりよみがえって、弟子たちが人を恐れて隠れている所に来てくださり、永遠のいのちを持つ生ける神であることを、弟子たちに証されたときトマスは居なかった。
トマスは彼らに「私は、その手に釘の跡を見て、釘の跡に指を入れ、その脇腹に手を入れてみなければ、決して信じません」と言った。(ヨハネ20:25)
トマスはそのニュースを聞いた時、どんなにか悲しく悔しくてたまらなかったと思う。イエスはそのようなトマスにも来てくださり、彼の望みを満たして礼拝の時を備えてくださった。
「あなたの指をここに当てて、わたしの手を見なさい。手を伸ばして、わたしの脇腹に入れなさい。信じない者ではなく、信じる者になりなさい。」
トマスはイエスに答えた。「私の主、私の神よ。」(ヨハネ20:27~28)
神は万物を創造された方、天地創造の初めから世の終わりまで人の造り主である。それなら一体どれほどの人をご存じなのであろう。その中の私なぞは砂粒以下の存在であろう。
しかし、主が私を親しく知っていて下さっていることは分かっている。どのような人間関係よりも信頼し、誰にも話さないことをもお話して、みことばを聴いている。御姿を見たことも無く、御声を聞いたわけでもないが、寝ても覚めても絶えることのないお交わりが在れば当然のことである。
親子でも何時もいつも一緒にいるわけはなく、胎を出れば距離をとって行くのが成長である。しかし、神との交わりは、信仰の成長に従っていよいよ濃密にキリストの愛を知るようになるのだ。
神は数えきれないほどの人を母の胎で組み立てられた造り主であっても、名も無いひとり一人の信仰者に百パーセントの愛をたまわる方である。その事実を一つひとつ体験して信仰は成長して行くのである。
トマスが特別に不信仰なのではなく、使徒たちがイエスを見ずに信じたのでもなく、彼らはイエスの御手の釘の穴と、わき腹の傷を見て信じたのである。命を掛けるほどに慕って来た方に自分だけが会えなければ、誰だってその嘆きの故にどのようにでも叫ぶであろう。
イエスが話された見ずに信じる幸いは、肉の目には見ることの無い私たちの幸いを教えておられるようである。
キリスト者に居られる三位一体の神を、肉よりもはるかに確かな霊のうちに絶えず味わい、神の子とされている恵みのことである。それはあまりにも信じ難いことなので「信じない者にならないで、信じる者になりなさい。」と警告されている。
私たちが神の子どもと呼ばれるために、御父がどんなにすばらしい愛を与えてくださったかを、考えなさい。事実、私たちは神の子どもです。世が私たちを知らないのは、御父を知らないからです。(Ⅰヨハネ3:1)
みことばを聖霊に信頼して受け入れることによってのみ、経験することができる神の臨在、その愛を個人的に知っているのは、常に共にいてくださるからであり、全てを知られている関係にこそ安息があるのだ。
愛する者たち、私たちは今すでに神の子どもです。やがてどのようになるのか、まだ明らかにされていません。しかし、私たちは、キリストが現れたときに、キリストに似た者になることは知っています。キリストをありのままに見るからです。(1ヨハネ3:2)
これほどのことが可能なのは、キリストの十字架のあがないが神の御前に完璧であるからである。信じられないのはキリストの十字架を侮り、御わざを割り引くからである。
愛されて主のうちに居り、愛する方が私のうちにいてくださるという関係は、血を分けた親子にも及ばない繋がりである。血を分けた親子も、それぞれが謙遜のうちに神との深い愛の交わりに導かれ、完全な愛の存在を知らなければならない。
やがて携挙によって、見ずに信じて来たキリスト者が「キリストを見る」時が来る。そう、主は再び来てくださり、私たちが御顔を仰ぎ見る喜びが用意されてある。その時は、見ずに信じた幸いに身を震わせることだろう。そうしてキリストと同じ聖い新しい体をたまわる。
「この右腕の痛みを取り去ってください。」と願い「ブログを止めよと言うことなら、完全に動かないようにしてください。」とも祈っても、いくらかマシになるだけの薬から解放されない。
それでもでも止めることが出来ないのは、みことばに触れると言葉があふれ出るからである。母乳を飲まされた方は知っているが、張る乳を子に飲ませずに居ることは苦痛なのである。
愛には恐れがありません。全き愛は恐れを締め出します。恐れには罰が伴い、恐れる者は、愛において全きものとなっていないのです。
私たちは愛しています。神がまず私たちを愛してくださったからです。
神を愛すると言いながら兄弟を憎んでいるなら、その人は偽り者です。目に見える兄弟を愛していない者に、目に見えない神を愛することはできません。(Ⅰヨハネ4:18~20)
恐れは愛を締め出す故に、恐れる者は主の臨在の約束を受け入れることができず、自分を神から守ろうとする。キリストの十字架の完全に安息しないのだ。
愛は神から出て、神によって成させ、神に帰って行くものである。神から出たものでないなら偽善となり、その人は初めから神を必要とはしていないので、神の愛の前に居ても味わたことはなく、神が人となって死ぬほどに愛されいる事実も知ることは無い。
かってのように、いつも祈りに応えてくださった主は何処に行ってしまわれたか・・なんて思わぬでもないが、新しいことへの期待もあり、戸惑いの中であふれ出て来る言葉を流している。
このままならない体は脱ぎ捨てる日が来る。サラリと脱いで空を飛ぶ日を待ち望み「主よ来たください!」と叫び続けよう。その日のための苦難もあるのだろう。