「あなたがたは心を騒がせてはなりません。神を信じ、またわたしを信じなさい。(1)
人は良い事にも悪い事にも心騒いでその事柄に釘付けになることがある。主から目を離して見える所には、光りの御使いに変装したサタンが、いよいよ惑わして滅びに引き込もうと待っている。
十字架のキリストは人には嫌悪したくなる御姿である。それゆえ人は十字架を語ることを避けたいのだ。目の前の出来事によってイエス・キリストへの信頼が揺るぐことがある。
そのときは聴き続けたみことばを反芻し、十字架で完成してくださった御わざに留まるなら、そう、イエスの完全な赦しの中に留まるときに、たとえ自分の姿がどのようであろうとも、御わざに安息することが出来るのである。
神が備えてくださった救いの十字架の下で、感謝にあふれ喜びの礼拝を捧げ、みこころを行う力を得るのだ。
しかし、彼は私たちの背きのために刺され、私たちの咎のために砕かれたのだ。
彼への懲らしめが私たちに平安をもたらし、その打ち傷のゆえに、私たちは癒やされた。(イザヤ53:5)
わたしの父の家には住む所がたくさんあります。そうでなかったら、あなたがたのために場所を用意しに行く、と言ったでしょうか。(2)
これからは弟子には想像してみることも出来ないことが起こる。イエスは人をご存じゆえに、試練のときにはみことばの砦に身を避ける場所を準備してくださる。
みことばを日々に聴く必要は此処にある。それは、あらゆる出来事の中で主に信頼して揺るがされないための備えであり、平安に生きるための知恵を与えてくださるからである。
人間は明日のことを心配する。人の目には先のことが見えないからである。しかしイエスは永遠を備えていてくださる。キリスト者が必ず辿り着くべき御国の住まいである。
このことを覚えているなら、もう明日のことに心を騒がせる必要は無い。永遠の備えがあるのに明日のことを思い煩うなら、あまりにも愚かに過よう。
わたしが行って、あなたがたに場所を用意したら、また来て、あなたがたをわたしのもとに迎えます。わたしがいるところに、あなたがたもいるようにするためです。
わたしがどこに行くのか、その道をあなたがたは知っています。」(3~4)
イエスが神のキリストと知るなら行かれる場所は天の御国であり、御父の御許であって、やがて地にに再臨される約束を弟子たちにされた。
イエスを神のキリストと明確に知るなら何処に行かれるのかと案じることはない。彼らはこれから神のキリストを、イエスの死と復活によって確認するのである。
トマスはイエスに言った。「主よ、どこへ行かれるのか、私たちには分かりません。どうしたら、その道を知ることができるでしょうか。」
イエスは彼に言われた。「わたしが道であり、真理であり、いのちなのです。わたしを通してでなければ、だれも父のみもとに行くことはできません。(4~5)
イスラエル人であれ異邦人であれ、イエスを私の罪からの救い主と告白して礼拝するなら、造り主なる神の御許で永遠に生きる。それが人間に与えられているただ一つの永遠の滅びからの救いである。
十字架のあがないに拠らず罪を持ったままでは、誰であっても自分の罪の故に、聖なる神のさばきに拠って永遠に滅ぶ。
人には永遠のいのちか永遠の滅びの二択しかない。それはイエス・キリストの十字架だけが、いのちへのただ一つの道だからである。
あなたがたがわたしを知っているなら、わたしの父をも知ることになります。今から父を知るのです。いや、すでにあなたがたは父を見たのです。」
ピリポはイエスに言った。「主よ、私たちに父を見せてください。そうすれば満足します。」(7~8)
イエスは神であられるのに、人の手で育てられなければならない赤子として処女マリアの胎に宿ってくださり、十字架に向かって生きて、すべての人の罪を負って死に救いの道を開いてくださった。
イエスは父なる神の愛を知らせ、愛を実行してくださる神である。ピリポはイエスのわざのすべてを通して神を知ようになる。イエスの十字架の死と復活に拠り、聖霊の神の臨在によって、使徒とされた光栄のうちに生きるのである。
イエスは彼に言われた。「ピリポ、こんなに長い間、あなたがたと一緒にいるのに、わたしを知らないのですか。わたしを見た人は、父を見たのです。どうしてあなたは、『私たちに父を見せてください』と言うのですか。(9)
イエスは未だ神のキリストと確信出来ピリポに、御わざを目で見て、主に手で触れ耳でみことばを語られる御声を聞き続けているのに・・と、少々がっかりされている。
それでも、私たちは主に願い続けなければならない。「みことばが理解できません。教えてください。」と繰り返し、繰り返し聴き続けて、日々に新しく開かれて行くことによって、神の愛を知ることで感謝にあふれ、喜びに満たされるのだ。
ただ大人が聴くべきは人ではなく、聖霊を通してイエスに聴くのである。主は一人ひとりにご計画を持っておられるので、主に聴くことで自分の成すべきことを教えてくださるからである。
わたしが父のうちにいて、父がわたしのうちにおられることを、信じていないのですか。わたしがあなたがたに言うことばは、自分から話しているのではありません。わたしのうちにおられる父が、ご自分のわざを行っておられるのです。
わたしが父のうちにいて、父がわたしのうちにおられると、わたしが言うのを信じなさい。信じられないのなら、わざのゆえに信じなさい。(10~11)
弟子たちがイエスと共に居ながら父なる神を悟ることがないのは、イエスの言葉にまったく嘘や偽りがないことに気付かない鈍感さがある。
生涯嘘をつかないという人間は居ない。明らかな嘘をつかなくてもあやふやなことを憶測で言ったり、幾らか誇張して自分の思いに導く言葉を使うものである。
神は真実ゆえに決して偽ることが出来ないので、イエスが口にされた言葉はすべて事実であり、みことばの通りに神のご計画のすべてが実現するのだ。
御子は神の栄光の輝き、また神の本質の完全な現れであり、その力あるみことばによって万物を保っておられます。御子は罪のきよめを成し遂げ、いと高き所で、大いなる方の右の座に着かれました。(へブル1:3)