イエスさまは十字架の時が近いのを知って、弟子たちに模範を示されました。弟子の足元にひざまずくようにして、ひとり一人の足を洗われたのです。そうして、手ぬぐいで拭ってくださいました。
大方の弟子は、言われるままに足を差しだして洗ってもらいました。どんな気持ちで汚れた足を御前に差し出し、イエスさまの手に触れられ洗われていたのでしょう・・。綺麗に洗われて拭われたときの気持ちはどんなだったでしょう。
私は足が汚いので、もしこんな場面に出くわしたら本当に狼狽するでしょう。でもね、私たちはイエスさまに、自分のもっとも汚れた部分に触れて頂く必要があるのです。
見せたくないその部分に触れて頂いて、赦しと、癒しと、そうして古いものをぬぐい去った新しい主発のための備えを頂かないと、イエスさまの弟子で居ることはできないのです。
恥ずかしさと勿体なさにペテロは一度は拒んで、後で手も頭も洗ってくださいと言いました。
でも、私たちはイエスさまに信頼して、そのままで身を任せる事がとても大切です。与えられるサービスはすべてを受けること。でも、それ以上を望まないこと。
いつも主のなさることは私たちの身の丈にぴったりだからです。すべての必要を満たしているからです。
ユダも同じように洗って頂いたのでしょう。しかし、彼の頭の中はお金の計算でいっぱいでした。イエスさまは無理に私たちの計画まで洗い去ることはされません。それは私たちの自由なのです。
しかし、イエスさまの御前に自身の計画を差し出すなら、それが私たちにとって汚れたものである時、主は洗い流してくださるでしょう。
イエスさまは、私たちに「互いに足を洗い合うように」とおっしゃいました。イエスさまは、私たちの罪、汚れのために十字架にかかって罪の代価を支払ってくださいました。イエスさまが足を洗ってくださったとは、それほどのことなのです。
私たちが互いの間にそのような愛を示すことなど、本当はできないことです。
イエスさまは、「わたしがあなた方を愛したように」と言われたのです。そんなことが出来るわけがないのです。
しかし、御真実なイエスさまが、出来ない事を私たちに命じることなど無いはずです。必ずできるように備えられています。
ひとり一人がイエスさまに堅く繋がって立っているとき、ひとり一人に満たして下さるイエスさまの備えによって、互いに愛し合うなら、それこそイエスさまの愛によって愛することだからです。
「イエスは彼らをじっと見て言われた。『それは人にはできないことです。しかし、神にはどんなことでもできます。』」(マタイ19:26)
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