石ころ

神の祝福とのろいの誓い(申命記29章)

 

先に主があなたに約束されたように、またあなたの父祖、アブラハム、イサク、ヤコブに誓われたように、今日あなたを立ててご自分の民とし、またご自分があなたの神となられるためである。(13)

 

主の祝福の契約とのろいの誓いはセットである。神の愛は民の純粋で裏切らない愛によって、滅びることのないいのちを得ることを求められた。
愛は温かい血の通った関係を求めるものであり、それは神の愛の真実によることである。

 

今日ここで私たちの神、主の前に私たちとともに立っている者たちとも、今日、私たちとともにここにはいない者たちとも結ぶのである。(15)

 

この契約は子孫にも働くものであり、やがてキリストによって一つとされる異邦人にも働くものである。主が愛のゆえに結ばれた契約の基本は、
「あなたには、わたし以外に、ほかの神があってはならない」(出エジプト20:3)

これは結婚の絶対条件である。キリスト者は主の花嫁であり、主は花嫁を自分自身のように愛し、救われた者をキリストのうちに安息させる。

天地創造の神がこのように人を愛して、罪によって去っても滅びに捨て置くことは出来ずに、御子キリストを遣わして、十字架の血潮で罪を洗いきよめて、罪なき者とし永遠の御許に取り戻してくださった。

 

事実、あなたがた自身、私たちがエジプトの地に住んでいたこと、また私たちが異邦の民の中を通って来たことをよく知っている。
また、あなたがたは、彼らのところにあった忌むべきもの、すなわち木や石や銀や金の偶像を見た。(16~17)

 

世に在るあらゆる偶像は身の回りに溢れていて、人はその中で生きて来た。主の祝福に留まる者は、信仰の純潔を守ることを約束した者である。
その契約によって主は完全な守りの中に置いて、永遠の愛に養ってくださっている。その平安は地に生きている今も神の家族の関係に拠ることである。

 

万が一にも、今日その心が私たちの神、主を離れて、これらの異邦の民の神々のもとに行って仕えるような男、女、氏族、部族があなたがたのうちにあってはならない。あなたがたのうちに、毒草や苦よもぎを生じる根があってはならない。(18)

 

それがどのようなものであっても、主を第一にせずにみことばと祈りの交わりを脇に置くなら契約違反である。主がその心を決して見過ごすことがないのは愛の故である。
それは永遠の愛を捨てて滅びに向かう行程であり、主の嘆きであり悲しみである。どれほど慈しんでも、裏切って滅びゆく花嫁への悲しみは怒りとなるのだ。主の愛が求める純潔は、心のうちに芽生える裏切りさえも見逃さない。

 

こののろいの誓いのことばを聞いたとき、心の中で自分を祝福し、「私は自分の頑なな心のままに歩んでも大丈夫だ」と言うなら、潤った者も渇いた者も等しく滅びることになる。(19)

 

心で思い巡らせることがもたらせる結果が恐ろしい。世では心で何を思い巡らせても罪となならないが神は心を見ておられるからである。
悪の根は人の心の奥に潜んで、本人も気づかないほど深い闇をもっている。そこではみことばに逆らう理屈があって神を訴え自分の思いを正当化し続ける。

 

しかし心を完全に支配できる人はおらず、それゆえに聖霊の助けが必要なのである。聖霊は人の理屈をみことばに照らして瞬時に否定し、神の義に導かれる。しかし人は見える所によってみことばを隅に押しやることが出来る。

 

主はその者を決して赦そうとはされない。むしろ、そのとき、主の怒りとねたみがその者に対して燃え上がり、この書に記されている、すべてののろいの誓いがその者の上にのしかかり、主はその者の名を天の下から消し去られる。
主は、このみおしえの書に記されている契約の、すべてののろいの誓いにしたがい、その者をイスラエルの全部族から選り分けて、わざわいを下される。(20~21)

 

神の愛は実に忍耐強くあって、キリストを遣わせて悔い改める救いの道を開いて待ってくださっている。今も、イスラエルの上にも異邦人にあっても、命の在る間は忍耐して待っていてくださるのである。

 

世のあらゆる災いのときにすべての人が神を恐れることを学び、今はみことばに照らして身を慎み、救いを求めて遜るべき時である。父なる神は、イエス・キリストご自身の命に代えての救いを備え警告しておられる。

「わたしはあなたがたに言います。あなたがたも悔い改めないなら、みな同じように滅びます。」(ルカ13:5)

 

災いを見る時それは同情で終わることではなく、裁く立場になく、まして神を訴える立場にもなく、身を慎んでいのちを惜しんで創造主なる神の御前に謙って平伏す時である。そうするなら、すべての災いも多くのいのちを救う実を結ぶ時となるのだ。

 

後の世代、あなたがたの後に起こるあなたがたの子孫や、遠くの地から来る異国人は、その地の災害と、主がそこで起こされた病気を見て言うであろう。(22)
人々は言うであろう。「それは彼らが、彼らの父祖の神、主が彼らをエジプトの地から導き出したときに結ばれた契約を捨て、
彼らの知らない、また彼らに割り当てられたのでもない、ほかの神々のもとに行って仕え、それらを拝んだからだ。(25~26)

 

主の民の証はその歴史に記される。主がどのようなお方であり、何を祝福し何をのろわれるかを証する。それは人の理屈を超えて現され、神は侮られるようなお方ではないことを知らされ、主を恐れることを人は知るのである。

 

隠されていることは、私たちの神、主のものである。しかし現されたことは永遠に私たちと私たちの子孫のものであり、それは私たちがこのみおしえのすべてのことばを行うためである。(29)

 

聖書が備えられてある今は、罪に消える儚い命の救いが御子キリストによって成就していることを知ることが出来る。信じて経験することが出来るのだ。
キリスト者は生きて働くみことばによって神の愛の深さを経験し、永遠の望みの中でキリストの平安を証するのである。


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