彼らがイエスを十字架につけたのは、午前九時であった。
イエスの罪状書きには、「ユダヤ人の王」と書いてあった。
また彼らは、イエスとともにふたりの強盗を、ひとりは右に、ひとりは左に、十字架につけた。(25~27)
イエスさまは強盗と一緒に処せられた。殺し奪う者と、命を与えて救う神のキリストが、一緒くたに十字架に並べ処せられた。
しかし、実は此処にいるのは私であり、強盗と一緒に十字架刑に処せられるのは私であった。
「ユダヤ人の王」それが罪状であろうか・・。
そこで、ユダヤ人の祭司長たちがピラトに、「ユダヤ人の王、と書かないで、彼はユダヤ人の王と自称した、と書いてください」と言った。(ヨハネ19:21)
ピラトは唯一これに抵抗した。これはピラトの意地なのか、それとも知っていながら何もできなかった懺悔なのだろうか。そう、罪状の無い「ユダヤ人の王」と書き残したことは・・。
道を行く人々は、頭を振りながらイエスをののしって言った。「おお、神殿を打ちこわして三日で建てる人よ。
十字架から降りて来て、自分を救ってみろ。」(29~30)
そう、その言葉の通りになる。イエス・キリストは死んで葬られ、黄泉にくだり、三日目によみがえり、天に完全な神殿としてご自身を建て上げられる。このことを信じた者はみなこの神殿に入り、永遠に生きるものとなる。
イエス・キリストが唯一、出来ないことがご自分を救うことであった。
父なる神のみこころは、ご自分の作品である人類を罪による滅びから救うことであり、キリストと共に死からよみがえらせて、創造の初めに回復させることであったから。
また、祭司長たちも同じように、律法学者たちといっしょになって、イエスをあざけって言った。「他人は救ったが、自分は救えない。」(31)
祭司長たちはキリストを殺して、自分の権威を救った。もし、キリストが十字架を降りて御自分を救われたら、過去にも現在にも未来にも救われる者は一人もいない。神の御前ですべての人は自分の罪のゆえに、永遠の処罰を受けることになったのだ。
「キリスト、イスラエルの王さま。今、十字架から降りてもらおうか。われわれは、それを見たら信じるから。」また、イエスといっしょに十字架につけられた者たちもイエスをののしった。(32)
「見たら信じる」十字架を降りられたキリストを信じたとて、何の救いも残ってはいないのだ。
罵られることは、人間には幾らかの原因もあってのことで、それゆえに傷つくのである。しかし、イエスさまはののしられる原因のまったく無い、完全に聖であり愛であるゆえに、ののしりがイエスさまを傷つけることはなかった。ただ、悲しみの人であった。
彼はさげすまれ、人々からのけ者にされ、悲しみの人で病を知っていた。人が顔をそむけるほどさげすまれ、私たちも彼を尊ばなかった。(イザヤ53:3)
さて、十二時になったとき、全地が暗くなって、午後三時まで続いた。
そして、三時に、イエスは大声で、「エロイ、エロイ、ラマ、サバクタニ」と叫ばれた。それは訳すと「わが神、わが神。どうしてわたしをお見捨てになったのですか」という意味である。(33~34)
すべての被造物が悲しみ、太陽も光を失って造り主の痛みを知っていた。
人類の過去、現在、未来のすべての罪がイエスさまに圧し掛かり、罪を受け入れることができない御父に見捨てられたイエスさまの叫びは、始めて「父よ」とは呼べず、人として「わが神」と罪の恐怖の中で叫ばれた。
そばに立っていた幾人かが、これを聞いて、「そら、エリヤを呼んでいる」と言った。
すると、ひとりが走って行って、海綿に酸いぶどう酒を含ませ、それを葦の棒につけて、イエスに飲ませようとしながら言った。「エリヤがやって来て、彼を降ろすかどうか、私たちは見ることにしよう。」(35~36)
彼らには、逃れるための何の奇跡も起こさず、静かに十字架にかかられたキリストは謎であったろう。今か今かと奇跡を見物したくて待っていたのだ。
奇跡によって多くの人を救った方が、それゆえに宗教者の妬みを買って十字架に掛けられたのだから、ご自分をも救われることは当然と思ったのだ。
いつの時代も、世にあって目の前の出来事だけを見ているなら、神は無能で愚かに見える。「神が居るなら、なぜこのような事が起こるのか。」「なぜ、何とかしないのか」とつぶやき神を責める。恐ろしいことである。
それから、イエスは大声をあげて息を引き取られた。
神殿の幕が上から下まで真っ二つに裂けた。(37~38)
叫びとともにキリストの心臓は引き裂かれた。その時至聖所の幕は天から裂けて、大祭司が年に一度しか入れなかった、神に近づく聖所への道が開かれたのである。
キリストのあがないを受けた者は、誰はばかることなく出入りして祈り、みことばを聴き、子として近しい交わりの時を持つことが許されたのである。
受洗クラスでこのことを知った時、イエスさまへの感謝とたまわった恵みに心が震えた。まるですでに「アバ父」の御許に帰ったかのように・・。