年寄りには重責の隣組の仕事も、そのことを通して今までふれ合うことのない人々と、少しの良い関係を築くことが出来るようにもなった。互いに笑顔で「ご苦労様」と話しかけ、親しくなることができたことは、支払った気苦労以上の嬉しい収穫だった。
こんなことがなければ何の接点もなく、互いにほとんど無関心なままで終わっていただろう・・。近隣にいて無関心な関係ということの恐ろしさをに、気づかされたことが大きいのかも知れない。
住まいとする地域は主が置かれた場所であり、主にあって私のテリトリーなんだから無関心はあり得ないことであろう。
親しい関係が多くなるということは悩みも多くなり、煩雑にもなり、そこで自分と言う者の不信仰、冷淡さ、短気や、無力さを幾度も味わうことになるけれど、そんな中でひとり格闘をしてゆくのも、それはそれで成長に繋がるのかも知れないから・・。
目を背けていては成長はないだろう・・。この歳になってやっと本気になるなんてあまりにも・・いや、主の導きには遅すぎるということはないのだから。
もう一つ主がくださった関係の修復、とても親しいくしていたのに、ちょっとした気持ちのずれから行き違ってしまったまま年月が流れ・・そんな関係が意外な方法でしかも自然に、互いに待ちかねたというふうに修復されて行くのを経験した。それはもし私の方法を押し通していたら得られなかったことだった。主にお任せしてぎりぎりまで待った結果だった。
この年の暮れ私は息子の風邪を貰ってちょっとした熱を出してしまった。元気でもおせちの準備には忙しいのに、30日に出勤する息子の朝食を準備をした後寝込んでしまった。それでも31日にはずいぶん楽になって、ほどんど例年通りにおせちをお重に詰めることができて嬉しかった。
そうして年越しそばを食べるというところまでは家族仲良くやってきたのだけれど、主人が手を付けたお風呂の掃除を、息子が横から奪ったことで主人が切れた。
「俺がやっているのに、あいつは俺のすることが気にいらんのか!」と私に向かってどなったことで「私は関係ないでしょう、私がさせたことでもないのに。なんでいつでも私に言うの。」と私も言い返す。私もぎりぎり疲れていたということ。
それでも、お風呂上がりの息子に「お父さんに、『ごめんなさい。お風呂に入ってください。』と言っておいて。」という。
息子は自分の職場での苦労も話して、「お父さんを傷つけたことは分かるよ。私も職場で、一生懸命やっていた仕事を横から取られてしまうことがあるから・・でも、それは効率第一主義だからなぁ・・」人の心を省みるには、いろいろな余裕が必要であることを話して大晦日の夜は過ぎてゆく。
私は遅くまで待っていたけれど主人は寝してしまったらしい。
生きているからいろいろなことが絶え間なく起こる。疲れもするし、病みもする、失敗をしては落胆もする。
怒らせたり、励ましたり、慰めることもあるけれど、心ならずも傷つけてしまったり・・。でも、それが生きると言うこと。そんなふうに生きているのがヒトという生きものなんだ。
そんな私たちを愛される主。そんな私たちを覆っていてくださる主。あなたが居てくださるからなにがあっても大丈夫。ただ、あなたにあって安心をして生きることができる。
新しい年も同じ事を繰り返すだろう、でも、主の導きの中で少しずつ成長してゆけるなら希望のあることだと心が弾む、それはいくつになっても若者と同じ。
平凡な日々の中にも今年は新しいことが起ころうとしている。それは主が計画されていること。私は恐れずに勇敢に主に向かって飛び込もう。だって、主にあってはいつも退路は断たれているのだから。
「だれでも、手を鋤につけてから、うしろを見る者は、神の国にふさわしくありません。」(ルカ9:62)
「恐れるな。わたしはあなたとともにいる。たじろぐな。わたしがあなたの神だから。わたしはあなたを強め、あなたを助け、わたしの義の右の手で、あなたを守る。」(イザヤ41:10)
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