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石ころ

また,パン

「『こんなへんぴな所で、どこからパンを手に入れて、この人たちに十分食べさせることができましょう。』すると、イエスは尋ねられた。『パンはどれぐらいありますか。』弟子たちは、『七つです。』と答えた。」(マルコ8:4~5)

 6章でパンの奇跡を経験しているのに、弟子たちのこのような反応はなんだろうと思った。また8章の14節でも、「パンを一つしか持ってこなかった」と互いに議論をはじめていた。いつもいつも「パンがない」と弟子たち。

 人は食べないと生きていけないから恐れる、弟子たちのようにお金がないとパンが買えない。人の面倒を見ている場合じゃないと・・。今日のパンがあっても明日のパンを思い煩い、老後のパンを思い煩う。思い煩うのは悟るところがなく、その心は堅く閉じているから。

 パンが5つあるとき、主によって5000人が満腹して12かご余った。パンが7つの時4000人が満腹して7かご余った。弟子の手元には1つのパンがあったからそれで十分だった。私たちがどれだけ持っているかなんて、主の御手を経るときなんの関係もない。主はいつも私たちに1つは持たせていてくださる。

 日々の小さな奇跡も謙遜なら覚えている。そんなことから信仰は積み重ねられて、思い煩う者ではなく主に安息して、主を賛美する生活を導いてくださるのだと思う。

わがたましいよ。主をほめたたえよ。主の良くしてくださったことを何一つ忘れるな。(詩編103:2)

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コメント一覧

石ころ
ありがとうございます。
腰の痛みを感じていたにもかかわらず、久しぶりの青空にたまらなくてウォーキングなどしたのが失敗だったと思います。とんちんかんですね。

礼拝を長い間休んでいると、ホームシック状態です。
Salt
お大事に
おからだご自愛ください。

腰が痛いとどうにもキツイですね。私も先日の人生初のぎっくり腰で腰痛に苦しむ方々の苦労がはじめて少しだけ理解できました。

「痛みというのは,同一条件下におかれた肉体だけが共有しうるものだ」と三島由紀夫が言っておったような。名言です。

そんなわけで神が人となられたわけで,からだがわずらわしい時ほど愛おしいものです。

キリストはかしら,そして,私たちはからだです。
石ころ
ひとつ
私の「ひとつ」は、イエスさま。
聖さ、愛、いやし、力、すべての必要をお持ちのお方。
もう私は、自分をのぞき込んではいません。

miyuki
主を賛美♪
思い煩うことの多い毎日でした。一つは持たせていてくださる.....それが..わからなかった見えなかった日々、御言葉をいただき、日々変えられてきているように,,,思います..主の愛の中で...賛美捧げます。とりなしのお祈りも感謝します。
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