するとすぐに、鶏が、二度目に鳴いた。そこでペテロは、「鶏が二度鳴く前に、あなたは、わたしを知らないと三度言います。」というイエスのおことばを思い出した。それに思い当たったとき、彼は泣き出した。(マルコ14:72)
他の箇所では、ペテロは「激しく泣いた」と書いてある。そう、彼は号泣したのだ。
彼は誰に泣いたのだろう。彼はイエスさまに泣いて訴えていたのだ。このどうしようもない自分の弱さと愚かさを・・。
その涙は甘い。取り返しの付かない失敗に泣くとき、自分の愚かさが洗われ、やりきれなさが薄められて行く。悲しみも涙によって癒される。
涙は、このどうしようもない失敗だらけの人間に、神様が逃れ場として備えてくださったアイテムかもしれない・・。
「わたしは、あなたの信仰がなくならないように、あなたのために祈りました。だからあなたは、立ち直ったら、兄弟たちを力づけてやりなさい。」(ルカ22:32)
ペテロはイエスさまのおことばを持っており、イエスさまをよく知っていたから生きることができたのだ。
彼はよみがえりのイエスさまを知ったとき、湖に一番に飛び込んで会いに行った。彼はイエスさまの赦しのおことばを待っていたのだ。
ユダはイエスさまを知らなかった。一緒に居てもみことばも聴いては居らず、イエスさまと語り合ったこともなかった彼は、泣くことが出来なかった。
イエスさまを売ったことが、取り返しの付かないことだと気付いたときも、彼は悔い改めるべきお方を知らず、すがりつくべきみことばも持っては居なかった。だから、彼は絶望の中で死んだ。
イエスさまの愛を知らない者は生きることが出来ない。イエスさまのおことばを知らない者は生きることが出来ないのだ。それは、すべての人に当てはまる事実である。
なぜなら、人の人生に失敗は必ずあり、悔いの連続でもあるから・・。赦されることが無くては落ち着いて生きることができないのだから・・。
ペテロは裏切った後も堂々と告白している。
「私があなたを愛することは、あなたがご存じです。」と・・。イエスさまを知っているから彼は安息している。
イエスさまの愛を知っている者こそが、主にあって働くことができるのである。
彼らが食事を済ませたとき、イエスはシモン・ペテロに言われた。「ヨハネの子シモン。あなたは、この人たち以上に、わたしを愛しますか。」ペテロはイエスに言った。「はい。主よ。私があなたを愛することは、あなたがご存じです。」イエスは彼に言われた。「わたしの小羊を飼いなさい。」(ヨハネ21:15)
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