イエスは、弟子たちにも、こういう話をされた。「ある金持ちにひとりの管理人がいた。この管理人が主人の財産を乱費している、という訴えが出された。(ルカ16:1)
主人である神様から、今、それぞれ人生の時間の管理を任されている。生まれながらはみこころに添わぬ世の事に費され、乱費されて滅びに向かって行くことになる。
しかし人はみな神様の元に帰る神の子であるべきで、滅ぶべきではないのである。
主人は、彼を呼んで言った。「おまえについてこんなことを聞いたが、何ということをしてくれたのだ。もう管理を任せておくことはできないから、会計の報告を出しなさい。」(ルカ16:2)
任された時間の用い方について、すべての人は神様の前で申し開きをしなければならない時が来る。与えられて居るこの世の時間、命の終わりが誰にも来るからである。
管理人は自分の将来について真正面から向き合ったことをほめられた。命のある間に終わりの日について逃げずに備えようとするなら、主の備えたもう福音に出会うことができる。
今、残りの時間を用いて、神様の友とされて永遠のいのちの備えするべきである。イエスさまは十字架に引いて行こうとするユダにさえも「友よ」(マタイ26:50)と呼んでくださった。
そこで、わたしはあなたがたに言いますが、不正の富で、自分のために友をつくりなさい。そうしておけば、富がなくなったとき、彼らはあなたがたを、永遠の住まいに迎えるのです。 (ルカ16:9)
抜け目なくやるべきことはいのちの備えである。手段を問わないほどにイエスさまは、永遠のいのちを与えたいのである。
それには、今はご自身の命が支払われ、故意に否むことがなければすでにあがなわれている者なのであるから・・。
小さい事に忠実な人は、大きい事にも忠実であり、小さい事に不忠実な人は、大きい事にも不忠実です。
ですから、あなたがたが不正の富に忠実でなかったら、だれがあなたがたに、まことの富を任せるでしょう。(ルカ16:10~11)
この世で生きる今日と言う日には、御国への備えは小さな事に思える。それよりも明日に備えることのほうが大事と考えてしまうのである。これこそ命を損なう罠である。
順序は神の国を求めることが先である。これによって世のことも与えられるとある。
だから、神の国とその義とをまず第一に求めなさい。そうすれば、それに加えて、これらのものはすべて与えられます。(マタイ6:33)
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