アブラムの妻サライは、アブラムに子を産んでいなかった。彼女にはエジプト人の女奴隷がいて、その名をハガルといった。
サライはアブラムに言った。「ご覧ください。主は私が子を産めないようにしておられます。どうぞ、私の女奴隷のところにお入りください。おそらく、彼女によって、私は子を得られるでしょう。」アブラムはサライの言うことを聞き入れた。(1~2)
神の完全なご計画が成るためには従順が試される。老いてなを十年待った彼らであるが、神には千年も一日のようなのである。
しかし、愛する人たち、あなたがたはこの一つのことを見落としてはいけません。主の御前では、一日は千年のようであり、千年は一日のようです。(Ⅱペテロ3:8)
待つ時間は神への信頼を表すバロメーターである。神のご計画が手遅れになることはないが、待てないことで現れる恥や失敗はキリスト者に幾らでもある。
ただ、信仰の告白ように主を待つ年月が、関係を深めて強固なものとなる。その忍耐の訓練を受けないなら、信仰生活に混乱や問題が生じて世に恥を晒すことになる。
彼はハガルのところに入り、彼女は身ごもった。彼女は、自分が身ごもったのを知って、自分の女主人を軽く見るようになった。
サライはアブラムに言った。「私に対するこの横暴なふるまいは、あなたの上に降りかかればよいのです。この私が自分の女奴隷をあなたの懐に与えたのに、彼女は自分が身ごもったのを知って、私を軽く見るようになりました。主が、私とあなたの間をおさばきになりますように。」
アブラムはサライに言った。「見なさい。あなたの女奴隷は、あなたの手の中にある。あなたの好きなようにしなさい。」それで、サライが彼女を苦しめたので、彼女はサライのもとから逃げ去った。(4~6)
サライが姑息な手段で子を得ようとし、アブラムもそれに納得したことが混乱を生み、互いを苦しめ夫婦の間に争いをもたらせた。そのさばきを彼女が神に求めた時、神はサライを認めずハガルを憐れまれた。
さらに、主の使いは彼女に言った。「見よ。あなたは身ごもって男の子を産もうとしている。その子をイシュマエルと名づけなさい。主が、あなたの苦しみを聞き入れられたから。彼は、野生のろばのような人となり、その手は、すべての人に逆らい、すべての人の手も、彼に逆らう。彼は、すべての兄弟に敵対して住む。」(11~12)
神はハガルを探し出して、主人に従順するように諭し、その子にイシュマエルという名を与えて胎の子の命を約束してくださった。
イシュマエルの誕生は神の計画に逆らってのことであるので、彼は「逆らう」運命を持って出て来た。
サウルはサムエルが伝えた「七日待て」という神のことばを待てずに、王権が確立されるチャンスを逃した。彼が待つには、兵に捨てられる覚悟が必要であったからである。
従順には自らの計画を捧げて、神の計画に期待することが必要なのである。それは一つの死を経ることであり、それゆえみことばに従って待つことは聖い捧げものなのである。