イエスさまは17章に続いて再び主の日を話された。宮は崩されなければ主の日は来ない。イエスさまが十字架で御体が裂かれなければ、私たちは至聖所に入れないように・・。
「それは、いつ起こるのか」と、ずっと問い続けられている。なぜそれを問う必要があるのだろう。
すべての解決を主はすでに教えておられる。
「人の言葉に惑わされるな」聖書には何と書いてあるか。
「天からのすさまじい前兆がある。それは終わりではない」まだ間に合う、主に静まれ。
「迫害が起こる。その時、証しのことばが備えられる。肉の知恵で考えるな。」
どんな反対者も、反論もできず、反証もできないようなことばと知恵を、わたしがあなたがたに与えます。(ルカ21:15)
「家族にも裏切られる。」
しかし、あなたがたの髪の毛一筋も失われることはありません。(ルカ21:18)
このみことばによって、結局家族は失われないことを知る。何も失わないのだから家族も失わないのだ。
「主イエスを信じなさい。そうすれば、あなたもあなたの家族も救われます。」(使徒16:31)
私は、イエスさまを信じて以来不器用で融通の利かない信仰によって、幾度か主人と衝突したことがある。
息子の信仰も主に投げ出して、自分の信仰を追い求めて来たけれど私は何も失っていない。ひとり主イエスを信じることがすべての祝福の初めである。
「忍耐によって、自分のいのちを勝ち取れ」
此処で、「自分のいのち」と書かれている。後のことは主の憐れみに頼るほかないということ。どうして人のいのちまで手が回るだろう・・それは無理である。
だからいつも主の憐れみの中に居て、思いを主に共有して頂いて居るのである。
人々は、その住むすべての所を襲おうとしていることを予想して、恐ろしさのあまり気を失います。天の万象が揺り動かされるからです。
そのとき、人々は、人の子が力と輝かしい栄光を帯びて雲に乗って来るのを見るのです。
これらのことが起こり始めたなら、からだをまっすぐにし、頭を上に上げなさい。贖いが近づいたのです。」(ルカ21:26~28)
気を失う人と、からだを真っ直ぐにし頭を上げる人がある。その時、からだを真っ直ぐにして頭を上げるためには、
あなたがたの心が、放蕩や深酒やこの世の煩いのために沈み込んでいるところに、その日がわなのように、突然あなたがたに臨むことのないように、よく気をつけていなさい。(ルカ21:34)
キリストを知る者に放蕩や深酒はないだろう。私も飲むことがあるけれど・・。
もっとも危険なのは世の煩いであることがわかる。それは明日のこと、将来への思い煩いに心を縛られることである。
キリスト者が「今」行き詰まることはない。なぜなら、ご真実な主は必要のすべてを備えて下さる方であるから・・。私は主の備えを山のように経験をしている。行き詰まって恥をかいたことは一度もない。
人は明日の事を心配して信仰から堕ちて行く。明日の事を心配して永遠を失うならブラックユーモアである。
しかし、あなたがたは、やがて起ころうとしているこれらすべてのことからのがれ、人の子の前に立つことができるように、いつも油断せずに祈っていなさい。(ルカ21:36)
祈り・・それは、御父と御子と聖霊の交わりに留まること。主に耳を澄ませて心を寄せて暮らすこと。
人間的な避け所がない分、主に対する油断のない緊張感を持ち続けることができるのである。そうして、それは主にのみ拠り頼む聖さとなる。
いつでもみことばを聴く備えの中で、名を呼ばれたら体を真っ直ぐにし頭を上げて、一瞬に主に上げられるのだろう・・。
それは災いの時ではなく、待ち焦がれた祝福のゴールである。
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