ピラトは、イエスを十字架につけるため彼らに引き渡した。彼らはイエスを引き取った。(16)
イエスを十字架に付けたのは兵士であったが、此処でピラトがイエスを「彼らに引き渡した」とあり兵士にとは書かれていない。ピラトはそれまで話していた彼らユダヤ人にイエスを引き渡し、彼らはイエスを好きにしたのである。
イエスは自分で十字架を負って、「どくろの場所」と呼ばれるところに出て行かれた。そこは、ヘブル語ではゴルゴタと呼ばれている。
彼らはその場所でイエスを十字架につけた。また、イエスを真ん中にして、こちら側とあちら側に、ほかの二人の者を一緒に十字架につけた。(17~18)
人がどのようにイエスを扱おうとも、すべては神の初めの計画の通りであり、イエスは御父のみこころを行って十字架を負われたのだ。世に居られる間すべてに御父のみこころを生きて、死にまで黄泉にまで従順されたのである。
此処にキリスト者の平安がある。自分の知力に拠って生きる者ではなく、神のみこころを聖霊の導きに拠って行うことの平安であり、自分自身を覗いてためらうことでは無いのだ。
神のみこころに添ったイエスの十字架は神の栄光となり、イエスの栄誉である。みこころを成し遂げて、罪に拠る死を滅ぼし永遠のいのちへの道を開いて、サタンが設けた死のわなに勝利して、神の愛を世にも完成されたからである。そう、イエスの救いを受け入れた者はみな神の国に入る神の子とし、永遠の御許に取り戻されたのである。
それゆえ、わたしは多くの人を彼に分け与え、彼は強者たちを戦勝品として分かち取る。彼が自分のいのちを死に明け渡し、背いた者たちとともに数えられたからである。彼は多くの人の罪を負い、背いた者たちのために、とりなしをする。」(イザヤ53:12)
何一つ罪を犯したことのない聖なる方が強盗と共に処せられる。それはイエスを貶めて犯罪者とする扱いである。
しかし、その事はイエスに出会った時が救いを求める時であることを知らせて、罪の結果である死の間際にも遅過ぎることはなく、御名を呼んで赦される神の憐みを教えたのである。
イエスを汚して貶めるべき存在が、イエスに近づいた時罪を赦されきよくされたのである。イエスを汚すことが出来るものは何も無く、イエスに触れた者は聖くされる。
ピラトは罪状書きも書いて、十字架の上に掲げた。それには「ユダヤ人の王、ナザレ人イエス」と書かれていた。
イエスが十字架につけられた場所は都に近かったので、多くのユダヤ人がこの罪状書きを読んだ。それはヘブル語、ラテン語、ギリシア語で書かれていた。(19~20)
ピラトは自分の信じたことをそのままに十字架に掲げさせた。彼らが自分たちの救い主である王を十字架に掛けたことを、時を越えて世界に知らせるためである。
そこで、ユダヤ人の祭司長たちはピラトに、「ユダヤ人の王と書かないで、この者はユダヤ人の王と自称したと書いてください」と言った。
ピラトは答えた。「私が書いたものは、書いたままにしておけ。」(21~22)
では、彼らはイエスをどなたと認識していたのであろう。御わざを目の当たりにして、みことばを直接聞いていたからである。
神が人となって話された言であれば、それは神に造られた者のうちに在る渇きを満たさずにはいないであろう。彼らの霊がどれほどに鈍感であり、その肉がどれほどに頑なで御わざを無視したのであろうか。
さて、兵士たちはイエスを十字架につけると、その衣を取って四つに分け、各自に一つずつ渡るようにした。また下着も取ったが、それは上から全部一つに織った、縫い目のないものであった。
そのため、彼らは互いに言った。「これは裂かないで、だれの物になるか、くじを引こう。」これは、「彼らは私の衣服を分け合い、私の衣をくじ引きにします」とある聖書が成就するためであった。それで、兵士たちはそのように行った。(23~24)
聖書のことばが成就するのは、神が一人ひとりをご存じだからである。すべてを知られていることによってご計画が成るのなら、私たちは主に在ってどれほどにか自由である。
みこころを行うことが昔から決まっていたからであり、失敗も成功も主がご存じであれば、それ以外のことは起こらない。
良いことを成し遂げることが決まっており、罪を悔いて主に留まることも知られて今日に至るなら、「まさかそのような者だとは知らなかった。がっかりした」などと捨てられることはないからである。
しかし事実主は、私たちが主をどのような方と思っているかは私たち自身よりも良くご存じである。
神は人に選択の自由を与えられたゆえに、御子を地に遣わせて救い出さなければならなかった。自由が無い所に愛は存在しないからである。
それゆえ神は、私たちに確かな一つの自由を与えておられる。それは神の愛から出たイエス・キリストの救いを受け入れるか、拒絶するかという自由である。それは御子イエスが十字架で流された血の代価であり、愛するひとり子を捨てるほどの愛が支払われた自由である。
人の自由と神のご計画は、信仰生活の中で撚り糸のように寄り添って命の選択に至るものである。一つに織られて鋏をいれることをためらわせる衣。それは父なる神と子なるイエス・キリストと聖霊の一つでありその関係を裂くものは存在しない。
みこころは、祈りつつ狭い門を通って誰も歩いたことの無い「私」に計画されている道である。それを妨げるものはなく、うちにおられる主の「これに歩め」という御声を聞き続けて、顔と顔を合わせて主を仰ぐ御国にゴールインする道である。