昨日は「イエスさま感謝します」と床から元気に立ち上がり、朝食を美味しく食べて、賛美をして聖書を開き、ブログのためのメモを取りながらみことばを学んだ。
ところがその後、先日から夜になると感じていた腹痛が強くなり、眩暈と風邪のような症状で体調が急に悪くなった。癒やしを求めて祈り安静にしていても、何時ものように直ちに良くなることは無く、むしろ鈍い頭痛と強い眩暈が続いた。
その時、イエスさまがゲッセマネで弟子に言われたみことばを思い出した。
誘惑に陥らないように、目を覚まして祈っていなさい。霊は燃えていても肉は弱いのです。(マルコ14:38)
気落ちという誘惑に陥らないようにと、いのちの言葉に留まって安息し、取り合えず常備薬のル〇三錠を飲んでウトウトしたり、俳句などを詠んで過ごしていたら、お腹がグーグー鳴って腹痛は消えていた。食事の準備をしていて眩暈も治まっていることに気付いた。
私は、体や魂の弱さが本音とは思わないことにしている。キリスト者の本音はみことばにあり、弱さが塵に過ぎない生身の体に現れても、朽ち行く体さえも癒やしてくださる主が居られ、すでにキリスト者が生きているのは、永遠に続く霊のうちに在ると思うから・・。
弱さの中でもみことばへの望みによる平安があり、口に出したみことばが生きて働くことを見るのは、その様な時であるから・・。体は年々弱り、魂には良い時も悪い時も思い煩わせるものがやって来る。そこに、みことばの約束を否定させる誘惑が在る。
ペテロがイエスさまを三度否定したのは、不信仰ではなく弱さである。それゆえ主は予め祈って赦しを備えてくださり、ペテロに知らせて、拠って立つ場所を備えておかれた。
主は人の弱さをよくよくご存じであり、同情して赦しを備えてくださった。ペテロがユダのように絶望することなく、復活の主を待つことが出来たのは、約束のみことばに留まり、イエスを否定した言葉を本音とはしなかったからである。
彼は自分に現れた弱さではなく、力ある主のみことばに望みを置いたのである。
弟子たちが集まっていた時も、ペテロが自分の失敗を話題にすることはなかっただろう。弱さを告白しても誰の益にもならない。約束のみことばを告白する時に、生きて働く神の力を分かち合うことが出来るのである。
わたしが行って、あなたがたに場所を用意したら、また来て、あなたがたをわたしのもとに迎えます。わたしがいるところに、あなたがたもいるようにするためです。(ヨハネ14:3)