だれも、わたしからいのちを取りません。わたしが自分からいのちを捨てるのです。わたしには、それを捨てる権威があり、再び得る権威があります。わたしはこの命令を、わたしの父から受けたのです。」
これらのことばのために、ユダヤ人たちの間に再び分裂が生じた。(18~19)
イエスは、父なる神の命令に子として従順して十字架で命を捨てられた。すべては神の権威の下に在ることで、神の義と神の愛に拠ることである。
イエスが神を父と呼ばれたことに反発する者たちは、やがて、イエスが十字架で死んでよみがえった時に、このみ言葉を思い出して不信の罪を悔い改め、十字架で罪をあがなってくださったキリストを礼拝するなら彼らも救われる。
イエスがキリストとして地に来られ、父のみこころを行ってすべての人の罪をあがなわれても、信じて救われる者と拒絶して滅びる者がある。
信じない者はイエスのわざも、力ある救いの言葉からも心を閉ざして自分の罪の中に留まり、御子の命をたまわるほどの神の愛を否んだからである。此処にいのちを分ける分裂が起こる。
あなたがたは、わたしが地上に平和をもたらすために来たと思っていますか。そうではありません。あなたがたに言いますが、むしろ分裂です。(ルカ12:51)
イエス・キリストが居ない平和は一人も漏れずに滅びる結果である。神は人に御子を十字架にたまわるほどの犠牲を持って選択の自由を備えられた。愛は自由意思によって応答するものだからである。
神の愛に応えて神を愛する者は、神とともに永遠を生きるようになる。其処に愛がなければ、永遠は終わりのない刑罰に過ぎないのだ。
彼らのうちの多くの人が言った。「彼は悪霊につかれておかしくなっている。どうしてあなたがたは、彼の言うことを聞くのか。」(20)
自分にとって都合の悪いことを言う者を、悪魔と呼んだり悪霊につかれていると言うのはサタンの常套手段である。彼らは自分たちが嫌われていることを自覚していて面白い。
それゆえ彼らは自分の姿を偽って清らかに上辺を飾り、好もしい笑顔を装って正しく聞える甘い言葉を用いる。
ほかの者たちは言った。「これは悪霊につかれた人のことばではない。見えない人の目を開けることを、悪霊ができるというのか。」(21)
人は自分の心に従って物事を判断する。目は自分の心や脳みそを通して認識するのである。それは罪ある身を守って生きるためであり、時には自分を真っ先に騙して良心を誤魔化す。
善悪知識の木の実を食べて以来、人には罪というフィルターが掛かっていて、神がご覧になるように真実を見ることが出来ない。それゆえ、みことばから真理を学び、聖霊の導きに拠ってすべてのことを判断しなければならないのである。
そのころ、エルサレムで宮きよめの祭りがあった。時は冬であった。
イエスは宮の中で、ソロモンの回廊を歩いておられた。
ユダヤ人たちは、イエスを取り囲んで言った。「あなたは、いつまで私たちに気をもませるのですか。あなたがキリストなら、はっきりと言ってください。」(22~24)
彼らがイエスに求めているものは神の子のしるしではなく、悪霊のしるしでありどんなに待っていても見つかるわけがない。
イエスから「キリストである」ということばを聞きたいのは、礼拝するためではなく殺すためであるが、それは神によって時が定められており彼らの支配下にはない。
イエスは彼らに答えられた。「わたしは話したのに、あなたがたは信じません。わたしが父の名によって行うわざが、わたしについて証ししているのに、
あなたがたは信じません。あなたがたがわたしの羊の群れに属していないからです。(25~26)
イエスを信じようとしない彼らは、イエスの羊ではないとはっきりと言われている。彼らはイエスのものではなく、イエスのものでないなら神のものでもない。
わたしの羊たちはわたしの声を聞き分けます。わたしもその羊たちを知っており、彼らはわたしについて来ます。(27)
聖霊に従ってみことばを聞き分けて応答するとき、神を「アバ父」と呼ぶ神の家族とされる。信じた瞬間から神の群れに加えられ、永遠まで主に従順して守りの中に安らぎを得る。それは人の頼りない善行に拠ることではなく、真実なみことばの約束に拠ることだからである。
わたしは彼らに永遠のいのちを与えます。彼らは永遠に、決して滅びることがなく、また、だれも彼らをわたしの手から奪い去りはしません。(28)
永遠のいのちはこの肉体の死を経た後にたまわる、朽ちることの無い真っ新な霊のからだに在る。
たとえ迫害の中で殉教しても、何ものもこの永遠のいのちを奪い去ることは出来ず、此処にキリスト者の平安がある。
血肉のからだで蒔かれ、御霊に属するからだによみがえらされるのです。血肉のからだがあるのですから、御霊のからだもあるのです。(Ⅰコリント15:44)
わたしの父がわたしに与えてくださった者は、すべてにまさって大切です。だれも彼らを、父の手から奪い去ることはできません。(29)
これほどの御約束をたまわっている身であれば、この世に在る間も豊かに主を楽しみ、尽きぬいのちの喜びを味わっており、身に余る救いの恵みによってすでに御国の心地なのである。
「見よ、神の幕屋が人々とともにある。神は人々とともに住み、人々は神の民となる。神ご自身が彼らの神として、ともにおられる。
神は彼らの目から涙をことごとくぬぐい取ってくださる。もはや死はなく、悲しみも、叫び声も、苦しみもない。以前のものが過ぎ去ったからである。」(黙21:3~4)