あなたがたは自分の背きと罪の中に死んでいた者であり、(1)
創造主なる神を無視する生き方によって人は限りある命となり、主の交わりによって受けるべきいのちのエネルギーを失った霊は死んだ。
かっては、それらの罪の中にあってこの世の流れに従い、空中の権威を持つ支配者、すなわち、不従順の子らの中に今も働いている霊に従って歩んでいました。(2)
キリストを知るまでは創造主なる神も知らず、永遠を思う心を世の喧騒にくらまされて、サタンの支配する世でただ先祖に倣って生き、老いて死ぬ者であった。
私たちもみな、不従順の子らの中にあって、かっては自分の肉の欲のままに生き、肉と心の望むことを行い、ほかの人と同じように、生まれながら御怒りを受けるべき子らでした。(3)
自分の善悪の中で自己を神として心の望むままに生き、神の愛を知らず滅びゆく命の危険を悟ろうともせず、造り主なる神の怒りを受ける者であった。
しかし、あわれみ豊かな神は、私たちを愛してくださったその大きな愛のゆえに、
背きの中で死んでいた私たちを、キリストとともに生かしてくださいました。あなたがたが救われたのは恵みによるのです。(3~4)
神の子であるキリストの十字架に価するものなど、およそ何も無く罪の中で渇いていた者に、聖霊がふれてくださり、キリストを救い主とする信仰を導いてくださったのは、すべて神の憐みに拠る備えであり一方的な恵みである。
聖霊によるのでなければ、だれも、「イエスは主です」と言うことはできません。(Ⅰコリント12:3)
十字架で死んで墓に葬られ、三日目によみがえられたキリストは、神に背いた人の罪のすべてを解決してくださり、信じる者に神との関係を回復してくださった。
背きの中で死んでいた私たちを、キリストとともに生かしてくださいました。あなたがたが救われたのは恵みによるのです。
神はまた、キリスト・イエスにあって、私たちをともによみがえらせ、ともに天上に座らせてくださいました。(5~6)
キリストにあがなわれた者は、死んでいた霊が目覚めて神との関係が回復され、御父と御子と聖霊による神の家族の中で生きる者としてくださった。それほどに、罪なきキリストの命によるあがないには力がある。
キリスト者は信じた瞬間から、世にある今も天上に生きている者である。この肉体が死ぬとき霊のからだがリアルとなるのであって、生きていても死んでいても、キリストとともに生きているのだ。
それは、キリスト・イエスにあって私たちに与えられた慈愛によって、この限りなく豊かな恵みを、来るべき世に示すためでした。(7)
救われた者が世に示すものは、キリストの慈愛であり無限の恵みである。それは自分たちの善行や能力や博識ではなく、むしろ神に相応しくない者を憐れんでくださるキリストの深い憐みと、良き方である神より発した御救いを世々に知らせるのである。
この恵みのゆえに、あなたがたは信仰によって救われたのです。それはあなたがたから出たことではなく、神の賜物です。
行いによるのではありません。だれも誇ることのないためです。(8~9)
キリスト信仰により罪なき者として新しく生まれた者に、神が備えてくださったものは完璧な守りである。私たちは救いのみことばに留まることによって完成される。
神から生まれた者はだれも、罪を犯しません。神の種がその人のうちにとどまっているからです。その人は神から生まれたので、罪を犯すことができないのです。(Ⅰヨハネ3:9)
人には神のきよさは思いも及ばぬものであり、人がどれほど高いモラルをもって生きても、その心のうちに偽善の影はあるだろう。
それゆえ神が成すべきことを示し、その力と必要のすべてを備えてくださってあるのだ。
実に、私たちは神の作品であって、良い行いをするためにキリスト・イエスにあって造られたのです。神は、私たちが良い行いに歩むように、その良い行いをあらかじめ備えてくださいました。(10)
真に神の備えは完全であり、人の弱さを知り尽くして完璧に備えてくださったのである。
イエスがよみがえられて弟子に現れたとき、繰り返し「平安があなたがたにあるように」と言われた。キリストの平安に留まることこそみこころである。