石ころ

モーセの四十日四十夜(出エジプト、申命記)

 

 モーセは雲の中に入って行き、山に登った。そして、モーセは四十日四十夜、山にいた。(出24:18)

 

モーセは主の御前で四十日四十夜、飲み喰いを忘れてみことばを聴くことに没頭していた。寝食を忘れるという言葉があるが、モーセの状態もそうであったのはないかと思う。それは彼にとって辛い時間ではなく、時を忘れる充実の中に在ったのではないかと・・。

 

私が石の板、すなわち、主があなたがたと結んだ契約の板を受け取るために山に登ったとき、私は四十日四十夜、山にとどまり、パンも食べず水も飲まなかった。(申9:9)

 

どんなに優れたものも過ぎ去る世の事でさえ、寝食を忘れて没頭するとき人は充実した命を生きている。
まして、神の御声に聴き入る時は、何ものにも比べようのない光栄な時であり、張り詰めた中にも充実していたと思うから・・。

 

眠ったかどうかは書かれていないけれど、夢にも現にも神の御前であったのだ。モーセにはまさに命懸けの時間、それはモーセだけのことではなく、民族の命が掛かっていることであり、もっと大切なことは神のご計画がかかっている時であったのだ。

 

 しかし、共に食事をした長老たちは民の中に帰って行き、訴えことを裁くべきアロンは民の声を聞き入れる金の子牛を作っていた。
食事を共にして喜ぶだけではその経験は過ぎ去って行く。みことばに留まって聴き続けていなければ、人は主にあって生きることが出来ないのだ。

 

 昔キリスト教の大きなイベントに行ったことがある。其処には多くのクリスチャンが共に賛美する熱狂があり、確かに心が揺さぶられたのだけれど、感情が冷めて行くと共に喜びも急速に冷めて行った。

 

何時までも続く喜びは日々聖書から出会うキリストにあり、感情がどんなに高揚する瞬間があっても、それは過ぎ去るものであった。
聖霊によって解かれたみことばを、キリストを経験しながら働かせるチャンスを得てこそ、何時までも変わらない喜びが続くのである。

 

主はモーセに言われた。「さあ、下りて行け。あなたがエジプトの地から連れ上ったあなたの民は、堕落してしまった。
彼らは早くも、わたしが彼らに命じた道から外れてしまった。彼らは自分たちのために鋳物の子牛を造り、それを伏し拝み、それにいけにえを献げ、『イスラエルよ、これがあなたをエジプトの地から導き上った、あなたの神々だ』と言っている。」(出32:7~8)

 

四十日四十夜の間にイスラエルの民がしたことは、同意したばかりの神の戒めを破って金の子牛を作った。神の怒りの前でモーセは再び四十日四十夜ひれ伏した。

 

それから私は、前のように四十日四十夜、主の前にひれ伏して、パンも食べず水も飲まなかった。あなたがたが罪ある者となって、主の目に悪であることを行い、御怒りを引き起こした、そのすべての罪のゆえであった。(申9:18)

それで私は、その四十日四十夜、主の前にひれ伏していた。それは、主があなたがたを根絶やしにすると言われたからである。(申9;25)

 

この時のモーセの哀願のような執り成しの四十日四十夜は、彼にはどのような時間であったろう。しかし、それは神のみこころに叶う時となり、もっとも深い信頼関係を築く時間である。

 

モーセのこの四十日四十夜は主への捧げものとなる。執り成しの祈りは何よりの捧げものである。
神と民の間に立って苦闘するモーセを、主はどれほど大切に思われたことであろう。モーセによってイスラエルの民の命は猶予を与えられた。

主に聴き入る四十日四十夜と、主に捧げる執り成しの四十日四十夜は、モーセの信仰の完成のように思えた。


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