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私は、あなたが情け深くあわれみ深い神であり、怒るのにおそく、恵み豊かであり、わざわいを思い直されることを知っていたからです。(ヨナ書4:2)
彼は、主の御顔を避けてタルシシュ行きの船に乗ったときから、腹の底ではわかっていたのだろう、主の愛も厳しさも、その全能の力も・・どうせこうなるということを・・。
だから、嵐の時も船底で眠りこけることができた。逃げている間も、主に身を任せるしかないことを知って居た。
たとい、私が天に上っても、そこにあなたはおられ、私がよみに床を設けても、そこにあなたはおられます。(詩編139:80)
魚の腹の中で死を味わっているときも、彼は愛されていることは確信していた。だから、何処ででも主と交わることが出来たのだ。たとえ、背いている時であっても、罰せられているときであっても・・
そこで主に祈って言った。彼は、自分の言葉を聞いてくださる方に話している。
「私のたましいが私のうちに衰え果てたとき、私は主を思い出しました。私の祈りはあなたに、あなたの聖なる宮に届きました。」(ヨナ2:7)
知って居ることと従順することとはレベルが違う。ヨナは死を経て従順することができたのだ。どんなに小さな事でも従順にはそれなりの死が必要である。
彼は愛によってニネベで働いたのではない。主に従順して仕方なく主の言葉を伝えたのである。
しかし、ニネベには主の備えがあり、彼の言葉は王宮からその大きな町の隅々にまで、真っ直ぐに届き真の悔い改めを招いたのだ。
彼はそうなることを知っていたといっているが・・。それでも自分の思いのように滅びることを40日間待っていた。
ニネベが救われることを望まなかったヨナは、自分の働きによって神の救いが現されたことを不愉快に思ったとある。
なんだかこの成り行きは面白い。神に従順するのは行いまでであって、ニネベの救いに対する反発は初めから少しも変わっては居ない。
そう、主の働きをしようとしても、自分の本心が付いてこないことによって躊躇してしまうことがある。
しかし、本心を知って居るから働けない、という言い訳が通らないことを此処で学んだ。私たちの本心なんてどうでもよいのだ。ただ、命じられたことをするとき、主はそれを用いられるのだから・・。大切なことは主のみこころが成ることである。
此処でヨナは自分自身を偽っては居ない。主のみこころを知ったからといって、私たちは自分自身を偽ることなど強いられてはいない。
信仰によってすぐに感情、心まで変えることはできない。怒りやねたみや恨みなどが消えるほど、人の心は容易く組み伏せるものではない。
主はそのことをよくよく知っていてくださったのだ・・、そのことに気付かされて私はとても感動している。
神である主は一本のとうごまを備え、それをヨナの上をおおうように生えさせ、彼の頭の上の陰として、ヨナの不きげんを直そうとされた。ヨナはこのとうごまを非常に喜んだ。(ヨナ4:6)
主はヨナの思いを決して無視されることはなかった。
まことに天地創造の神が、不機嫌を直そうとあやしてくださるのである。ひとりの人にさえ、ここまで細やかな愛と忍耐をもって顧みてくださる。私たちの主なる神はこう言うお方である。
ヨナは葛藤の中で主の愛を経験して、また新たに主を知るのである。
従順するとき私たちは主の愛を経験することが出来る。私を知り尽くす方の個人授業を受ける事ができる。それはなんと幸いなことだろう。
わたしは誠実を喜ぶが、いけにえは喜ばない。全焼のいけにえより、むしろ神を知ることを喜ぶ。(ホセア6:6)