男は、怒ったり言い争ったりすることなく、どこででもきよい手を上げて祈るようにしなさい。
同じように女も、つつましい身なりで、控えめに慎み深く身を飾り、はでな髪の形とか、金や真珠や高価な衣服によってではなく、
むしろ、神を敬うと言っている女にふさわしく、良い行いを自分の飾りとしなさい。(8~10)
パウロの時代の「女の地位はこんなもの・・」などと思いそうだけれど、この記事が残されていることにお導きがあるはず、聖書を導かれた神さまは、初めから終わりまでを知っておられる方だからである。
エデンの園で、エバが蛇に誘惑されたのは、その実の「目に慕わしい」という「見た目」に引かれたからだった。それは女の弱点でもあり感性でもあるのだろう。だから「見た目がすべて」という、価値観に陥らないように戒められている。
女は、静かにして、よく従う心をもって教えを受けなさい。
私は、女が教えたり男を支配したりすることを許しません。ただ、静かにしていなさい。
アダムが初めに造られ、次にエバが造られたからです。
また、アダムは惑わされなかったが、女は惑わされてしまい、あやまちを犯しました。(11~14)
エバはアダムから、善悪の知識の木について学ぶ必要があったのだ。「よく従う心をもって教えを受けなさい。」とはそういうこと。キリスト者の「良い行い」の第一は、みことばの教えを受け従順することにある。
女は雑事に対しては、直感力によって事をスムーズにこなす才があり、アダムはそのことに慣れてエバに従ったのだろう。此処に彼の罪があるのではないかと私は思う。慣れによって、神のことばをおろそかにしたからである。
みことばという箍(たが)が特に女性に必要と思うのは、それだけ家族に対しての影響力が大きいからなのだ。
それに、実の「賢くしてくれそう」に引かれたように、女には賢さに対する貪欲もあって、なかなか満足しない生きものでもある。それは子育てなどの必要に備えようとすることでもあるけれど・・。だから、自制して静まることを導かれている。
「お前たちは、立ち帰って/静かにしているならば救われる。安らかに信頼していることにこそ力がある」(イザヤ30:15)新共同訳
結婚や子育てでは、家事に追われて世から隔絶され、無為に若い歳月が過ぎ去るように思える。そんな日々にみことばに信頼するなら、平和に家族を味わって過ごすことができる。
自分を脇に置いて、静かにみことばと家族に仕える日々は、主がみことばに聞き従うことの祝福を、うちに蓄えてくださっている時であり、神さまと夫の愛の中で安らかに守られ、良い実を成長させてくださっている時でもある。
しかし、女が慎みをもって、信仰と愛と聖さとを保つなら、子を産むことによって救われます。(15)
マリヤがイエスさまを産んだことに、どれほど女性に対する神の祝福があることだろう。
それは何も、この世で子どもを産むことや産まなかったことではなく、マリヤが女性の代表として、そこに女性の祝福を見ることである。
弱いはずの女が、出産や子育てという厳しい体験をしつつも、男よりも長い時間世に生かされるのは、陰に隠れた忍耐の歳月のあがないであろう。
だから焦る必要はない。従順した者にはお取り置きの「自分の時」が用意されてあるのだから。
誰をも支配する責任を負わされず、キリストのご支配に身を委ねることができる女性は、その感性を通して、キリストの花嫁の味わいが、男性よりもはるかに深いのではないか・・と私は思っている。
しかし、神さまには男も女もひとりの人なのではないかな・・ 、それぞれに造られたのではなく、アダムの骨からのエバなのだから。それは互いの役割を担いつつ根底にある平和だと思う。