これらのことを話してから、イエスは弟子たちとともに、キデロンの谷の向こうに出て行かれた。そこには園があり、イエスと弟子たちは中に入られた。(1)
イエスが弟子たちと共に歩かれるのはこれが最後であった。弟子たちの帰り道にイエスはおられなかった。
すべてのことには時があるが、今がどのような時であるかを人は知らない。でも、主はすべて知っていてくださる。それがキリスト者の慰めである。
イエスは天に永遠の住まいを備えていてくださる。それゆえ今日主と共に歩くことを楽しみ、一時ひとときをみことばに耳を傾けつつ、あっけらかんと喜んで生きることが出来るのだ。
一方、イエスを裏切ろうとしていたユダもその場所を知っていた。イエスが弟子たちと、たびたびそこに集まっておられたからである。
それでユダは、一隊の兵士と、祭司長たちやパリサイ人たちから送られた下役たちを連れ、明かりとたいまつと武器を持って、そこにやって来た。(2~3)
ユダはイエスと共に過ごした場所にイエスを捉える兵隊を案内して来た。彼が憶えていたのはイエスを捕らえるための場所であった。
足先だけを照らすたいまつを頼りにして、永遠を照らすイエスを捉えるために来た彼の暗闇は、自分が何をしているのか見えていない。
ユダは多くの兵士と共にいてさぞ心強かったであろう。それはユダがイエスの御わざを何一つ覚えていない証拠であり、金銭を愛して財布から盗み取りイエスを売った金を数える安心である。
ユダはふっとイエスを売って金を得ることを思いついたのであろう。それは非常にスムーズに運び、イエスに歴史的な十字架を準備する役割りを全うしたのである。
計画が進まないことが守りであったり、すべてが目の前に揃っていて速やかに進む時もある。その時はみこころを知るために明確なみことばを待つ必要がある。
主に在っては遅過ぎることはないからである。
イエスはご自分に起ころうとしていることをすべて知っておられたので、進み出て、「だれを捜しているのか」と彼らに言われた。
彼らは「ナザレ人イエスを」と答えた。イエスは彼らに「わたしがそれだ」と言われた。イエスを裏切ろうとしていたユダも彼らと一緒に立っていた。(4~5)
他の福音書にはユダが口づけをして捕まえるべきイエスを知らせたとある。もっとも親しい挨拶をもってイエスを裏切るユダの行為からは、彼が神の愛には何の感慨も無いことがわかる。
イエスが彼らに「わたしがそれだ」と言われたとき、彼らは後ずさりし、地に倒れた。
イエスがもう一度、「だれを捜しているのか」と問われると、彼らは「ナザレ人イエスを」と言った。(6~7)
パウロは倒された時に主を恐れることを学んだ。神を恐れることを学ぶなら主に倒されることはとても良いことである。強いうなじが打たれて謙り、何処から間違ったのかを学ぶからである。
ユダにも、イエスが神であることを悟ってひれ伏す最後のチャンスであった。
イエスは答えられた。「わたしがそれだ、と言ったではないか。わたしを捜しているのなら、この人たちは去らせなさい。」
これは、「あなたが下さった者たちのうち、わたしは一人も失わなかった」と、イエスが言われたことばが成就するためであった。(8~9)
神は愛である。イエスの祈りによって弟子たちを守られる。どのような状況に在ってもみことばはすべて成就する。
今もイエスは神の右の座に在って執り成し続けていてくださるから、キリスト者も自分のことを心配しないで時が良くても悪くても、示されたことを大胆に行うことが出来るのである。
たとえ間違うことがあっても、一時ペテロのように恐れに捕らえられることがあっても、信頼して留まる者をイエスは回復させてくださる。それは作り主ゆえに、人の初めからすべてのことをご存じだからである。
ユダは心のままに行って滅びを刈り取った。使徒たちは復活のイエスに出会って聖霊をたまわり、殉教するまでイエスを愛し福音を知らせ続けて天に凱旋した。
彼らは「無学な普通の人」であったが、永遠の望みのゆえにすべてを主に捧げることを選択したのである。