27:38 そのとき、イエスといっしょに、ふたりの強盗が、ひとりは右に、ひとりは左に、十字架につけられた。
イエスさまは強盗と一緒に十字架にかけられました。それは、特別な身分の方としてではなく、どこまでもごく普通の人となってくださって、私たちの罪を負ってくださったことを現しているように思います。
27:39 道を行く人々は、頭を振りながらイエスをののしって、
27:40 言った。「神殿を打ちこわして三日で建てる人よ。もし、神の子なら、自分を救ってみろ。十字架から降りて来い。」
神殿とはイエス・キリストの御体を現しています。だからまさに、これからそのことが行われるのです。彼らの言うとおりにイエスさまが十字架から降りられたなら、人間の罪は永遠に残り、すべての人が滅びることになったのです。
27:41 同じように、祭司長たちも律法学者、長老たちといっしょになって、イエスをあざけって言った。
27:42 「彼は他人を救ったが、自分は救えない。イスラエルの王さまなら、今、十字架から降りてもらおうか。そうしたら、われわれは信じるから。
27:43 彼は神により頼んでいる。もし神のお気に入りなら、いま救っていただくがいい。『わたしは神の子だ。』と言っているのだから。」
27:44 イエスといっしょに十字架につけられた強盗どもも、同じようにイエスをののしった。
イエスさまが十字架にかかってくださった場所では、ののしり、あざけり、からかいの言葉ばかりの不信仰のど真ん中でした。賛美や感謝や信仰の中でではありません。
このことに人の罪の醜い姿を、遙かに超えたイエスさまの愛の深さ、神様の救いのご計画の偉大さを感じます。
私たちは少しのことで人を裁く者ですが、神様の救いのご計画は遙かに深く、どうしようもない者だからこそ、御子を送って下さり、罪を身代わりに負って救い出すということを計画し、実行して下さったのだと思います。
私もかってはその行いや言葉において、十字架を降りてきて私を救ってみろと心の中で叫んでいた者です。
27:45 さて、十二時から、全地が暗くなって、三時まで続いた。
27:46 三時ごろ、イエスは大声で、「エリ、エリ、レマ、サバクタニ。」と叫ばれた。これは、「わが神、わが神。どうしてわたしをお見捨てになったのですか。」という意味である。
ゲッセマネでイエスさまが血のような汗を滴らせ「わが父よ。できますならば、この杯をわたしから過ぎ去らせてください。」このように祈られたのは、ご自身が人の罪を負うことによって、聖なる御父から切り捨てられることの恐れだったのではないかと思います。
三位一体の神であるお方は、天地創造の初めからずっとご一緒でした。ですから、イエスさまのこの恐れはどれほどであったか、父なる神様のこのときの痛みはどれほどであったか、私たちには計ることさえ出来ませんが・・。
また負われた罪の恐怖は、聖なるイエスさまにとって一度も経験なさったことのないものですから、どれほど苦しいことであったかと思われます。本当に人の罪とはおぞましいものだからです。
27:47 すると、それを聞いて、そこに立っていた人々のうち、ある人たちは、「この人はエリヤを呼んでいる。」と言った。
27:48 また、彼らのひとりがすぐ走って行って、海綿を取り、それに酸いぶどう酒を含ませて、葦の棒につけ、イエスに飲ませようとした。
27:49 ほかの者たちは、「私たちはエリヤが助けに来るかどうか見ることとしよう。」と言った。
27:50 そのとき、イエスはもう一度大声で叫んで、息を引き取られた。
27:51 すると、見よ。神殿の幕が上から下まで真二つに裂けた。そして、地が揺れ動き、岩が裂けた。
旧約聖書の時代、神様はご自身が選ばれた一人の大祭司にだけ語られました。それも、殺した動物の血によって罪をあがなうということを、お会いする度ごとに繰り返して、やっと死なずに会うことができるという、神様は罪ある人間には恐ろしい方でした。
裂けた幕とは、神殿の中の至聖所と聖所との間を仕切る幕のことです。それこそ聖い神様と罪人を隔てているものでしたが、イエスさまが十字架で死んで下さった瞬間に、天から地に向けて真二つに裂けたのです。
イエスさまがただ一度、十字架で聖いご自身を捧げ、その血をもって私たちの罪を永遠にあがなってくださったのです。
それこそイエス・キリストが十字架で成し遂げて下さったことです。
人には決して守ることのできない律法を、イエスさまが完全に満たして下さって、人を責め続け罪に定める律法から解放してくださったのです。
だから、今私たちを神様から隔てる幕は取り去られています、それが出来たのは、罪はイエスさまによって完全にあがなわれ、その罪の代価が十字架によって支払い済みだからです。
私たちは今も罪の中にいるのですが、イエスさまの十字架によってもう清いとされ、父なる神様になんでも自由に祈ることが赦されます。祈りは神様に届いており、時にかなった助けを頂くことが出来るのです。イエスさまの血は完璧ですから、祈りによって神様に打たれることはもうありません。
27:52 また、墓が開いて、眠っていた多くの聖徒たちのからだが生き返った。
27:53 そして、イエスの復活の後に墓から出て来て、聖都にはいって多くの人に現われた。
27:54 百人隊長および彼といっしょにイエスの見張りをしていた人々は、地震やいろいろの出来事を見て、非常な恐れを感じ、「この方はまことに神の子であった。」と言った。
27:55 そこには、遠くからながめている女たちがたくさんいた。イエスに仕えてガリラヤからついて来た女たちであった。
27:56 その中に、マグダラのマリヤ、ヤコブとヨセフとの母マリヤ、ゼベダイの子らの母がいた。
27:57 夕方になって、アリマタヤの金持ちでヨセフという人が来た。彼もイエスの弟子になっていた。
27:58 この人はピラトのところに行って、イエスのからだの下げ渡しを願った。そこで、ピラトは、渡すように命じた。
27:59 ヨセフはそれを取り降ろして、きれいな亜麻布に包み、
27:60 岩を掘って造った自分の新しい墓に納めた。墓の入口には大きな石をころがしかけて帰った。
ヨハネの福音書19章
19:38 そのあとで、イエスの弟子ではあったがユダヤ人を恐れてそのことを隠していたアリマタヤのヨセフが、イエスのからだを取りかたづけたいとピラトに願った。それで、ピラトは許可を与えた。そこで彼は来て、イエスのからだを取り降ろした。
アリマタヤのヨセフという人は社会的な地位のある人で、神の国を待ち望んでいたと書かれています。イエスさまの教えを受けていたのですが、それまでは人を恐れて弟子であることを隠していました。
イエスさまが十字架で死なれて、天地に大きなしるしが現れたとき、彼はこの出来事に勇気づけられ、イエスさまの御体を葬るという大役を果たすことが出来ました。
犯罪者として、十字架刑という重い罪に処せられたイエスさまを引き取りに行くことは、とても勇気が必要だったろうと思います。何しろお弟子たちも逃げて行ったのですから。
聖書には貧しい人の祝福が多く出てきますが、金持ちにとっては、その持っているものをどのように使うかということが重要です。
アリマタヤのヨセフは、自分のために用意していた新しい墓をイエスさまに提供しました。
このときには、イエスさまがよみがえられることは誰も知らなかったのです。だから彼は心からなんの見返りも求めないで、イエス様にとても高価な自分のための場所を捧げたことがわかります。
自分のための場所をイエスさまに捧げるということは、私たちにも深いことを教えていると思います。
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