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最近の遊びは塗り絵。ひとりぽっちの夜、ポール・モーリアなどを聞きながらの色遊び・・。
思いつきで注文して、孫でも遊ぶだろうと仕舞ってあったのだけれど、「なんだかしんどいなぁ」って日に「ああ・・あれがあった。」と気を紛らわせるために手にしたのが始まり。
配色を楽しんでいると西陣で唐織りをしていた日を思い出した。色の種類は決められていたけれど唐草模様の配色を任された時は、心弾ませながら織り続けたものだった。あの時ばかりは仕事が趣味のように楽しかった。
本来は厳格に色が決めら、柄のサイズも数㎜の狂いも許されないほどで緊張が続く。それというのも紋がほとんどであり、それは少し伸びても縮んでも形が変わってしまうからであった。それでも私はその仕事が好きだった。人に気遣う必要もなく、一人で集中できる職人仕事は私に合っていた。
やっと一人前に認められて来て、織るだけではなく縦糸の扱い方から織機の扱いまで教わり始めた頃、皮膚結核という思いもよらない病気に罹っていることがわかって、日赤通いをするようになり仕事を続けられなくなってしまった。
土間を掘って織機を埋め込むように置かれた場所で、朝から晩まで仕事を続けていたからだろうと思う。
土の中に埋め込まれているのは仕上がりまでに1ヶ月はかかり、絹糸には乾燥が禁物だからじゃないかと思っている。
糸の繊細さ故に私は織り以外の仕事はいっさい出来なかった。手を荒らすことは仕事ができなくなることだったから。
奥さんは大切にしてくださった。夜食を屋台のぜんざい屋さんに取ってもらって、薄暗い京町家の台所で二人で食べた独特な甘さを思い出す。
一人前にならないと給料なんてほとんどなかったので、お風呂の入浴券から休日の映画館の入場券まで支給されたものを使っていた。
自由もお金もまったく無かったようなものだったが、仕事が好きで苦になることはなかった。
まあ、一人前の職人さんと混じって織っていたのだから、いいように使われていたではないかと、5~60年も経った今頃になって気づいたのだけれど・・。
今、主はすべてをあがなってくださっていることに、色鉛筆を選びながらふと気づいた。